群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)

私ども夫婦は、2015年8月30日に米国サンクチュアリ教会本部で行われた「真の御父様の聖和3周年記念礼拝」(蘇生期・真の基元節)および「真の御父様の権威に戻るための祝福式」に参加し、同日の夜、日本において「真の御父様の権威に戻るための祝福式」を行うための、任命の祝祷を受けました。
2015年12月30日にCyberサンクチュアリ人協会の会長を辞め、文鮮明真の御父母様・文亨進二代王様・文國進監察総監様の側近である江利川総会長の下で働くため、日本サンクチュアリ協会に移籍しました。

⑫原理原本から「原理目的が未完成の人間は自然と原理的拘束を受けて不安というものが始まり、それが継続する」

原理原本505~506頁から引用します。


原理目的が未完成の人間は自然と原理的拘束を受けて不安というものが始まり、それが継続する

その目的が未完成であれば非原理となるため、人間もすべての存在も非原理世界で動作する様になり、これは原理の目的ではないがゆえに幸福になり得ないのである。これは相対を失って対象が離れたところゆえに、自然と破壊作用が始まるため、原理目的が未完成の人間は自然と原理的拘束を受けて不安というものが始まり、それが継続するのが自然的事実である。


我々が不安になれば、その根本であり「一」なる本体である神も、基本存在として同じ作用法理(法則と原理)により、やはり不安である

我々が不安になれば、その根本であり「一」なる本体である神も、基本存在として同じ作用法理(法則と原理)により、やはり不安であることは原理的事実となる。ゆえに「 すなわち神と我々とは、同線形の作用回路の上で一つになるのが原理であり、それが自然作用的原理となっている。ここに神が人間の堕落によって嘆息する基本的な理由がある。 


主イエスの十字架の血で


基本の中心である「一」と連関する使命を完成しなければならないと同時に、自我完成の使命を完成してこそ、天宙に対する自己自我の価値ある位置を求めることができる

したがって、基本存在の対象位置で作用するように造られた存在が、目的を取り戻してその価値を復帰した世界が本然の理想世界である。ゆえに各自なら各自自体、または存在物なら存在物自体も、その全体が基本の中心である「一」と連関する使命を完成しなければならないと同時に、自我完成の使命を完成してこそ、天宙に対する自己自我の価値ある位置を求めることができるのである。


ですから私は、下記を「座右の銘」として、自分を励まし続けています。
「わたしの力は弱い所に完全にあらわれる」


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この記事発表の翌日と翌々日、ラインのリマも、記憶(記録)すべきだと思い、追加します。
(毎日の投稿に感謝申し上げます。)
神様の両面性、内的「愛」と外的「厳しさ」を確認できます。
人生に必要な「悟り」だと思います。


子が苦痛の中にあれば、自らの命を捨ててでも子のために生きようとする父母なる神である。

神様は気楽に栄光の宝座に坐って「おい、誰かおらぬか!」というような方だろうか。

そうではない。子が苦痛の中にあれば、自らの命を捨ててでも子のために生きようとする父母なる神である。  1971.9.5.


 伝道復興委員会文責


最後の審判台の前に堂々と立てる、真の息子と真の娘の出現を待ち望んだ

神様は残忍な方である。千年、万年後を見つめて役事する神様は、多くの犠牲も意に介されない。

キリスト教はどの国においても、多くの信徒が犠牲になってきた。

それは神様が計画する最後の審判台の前に堂々と立てる、真の息子と真の娘の出現を待ち望んだからである。  1960.6.12


 伝道復興委員会文責


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その後書いた記事ですが、救済的です。

「自分のレベルを知らなければならない」~「あなたは腰に帯して、男らしくせよ」 - 群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)


「私はとても嬉しい人になりました。」 - 群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)


「神様は答えをくださったのに、私がその答えが気に入らないと言って押しのけてしまったのではないか。」 - 群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)



「わたしの力は弱い所に完全にあらわれる」

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