腹が立ったり、恨んだりしませんが、残念ながら「従わない姿」になってしまいます。
「観光客」としての記事を終え、下記の続きに戻ります。
「帰国するな」という御言葉を拒むと、「焼きつくされる」ことを考えさせられます。 - 群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)
から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)
民数記を学びながら「不従順」に対して多く考えるようになりました。「不従順」とは信仰が無いため神様と指導者を恨んで従わない姿ではないだろうかと感じていますが。私の心の中で腹が立ったんだということがわかりました。
このように従順でない姿は神様を恨むことなんだな。神様を畏敬していないんだなということを私は民数記を読んで学びました。
私がこんな恨みがでるのは、私が神様と真のお父様と問題が出来たから、こんな恨みが先に出たんだとチェックすることが出来ると思います。
私たちの現実も本当に大変ですが、同時にその大変な状況でも信仰で答えることが、この状況がそんなに間違ってはいないのだなとよく考えたりします。
信じれば待つことが出来るのに、信じたら我慢することが出来るのに、何故なら神様は私に最も良いものを下さることを知っているのだから、信じれば我慢でき、喜んで付いていけるのに、この部分が足りなくなると私から先に不平が出て、疑いが生じ、不満が生じるんだな、この関係をはっきり振り返ることが出来ると思います。
私に恨みと不平が出たら、あ!こんな部分をチェックしてみないといけないのだと、喜ぶ信仰、従順になりながらも犠牲になったと自分が損をしたように考えるのではなく、喜ぶことが出来る信仰、そんな姿に少しでも近づいたと思ってとても良いのです。嬉しいのです。
「帰国するな」と言われて、腹が立ったり、恨んだりしませんが、残念ながら「従わない姿」になってしまいます。
その後、日本で「焼きつくされる」「状況」になった時に、上記の意味で「不従順」を「チェック」することになるのだと思います。