群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)

私ども夫婦は、2015年8月30日に米国サンクチュアリ教会本部で行われた「真の御父様の聖和3周年記念礼拝」(蘇生期・真の基元節)および「真の御父様の権威に戻るための祝福式」に参加し、同日の夜、日本において「真の御父様の権威に戻るための祝福式」を行うための、任命の祝祷を受けました。
2015年12月30日にCyberサンクチュアリ人協会の会長を辞め、文鮮明真の御父母様・文亨進二代王様・文國進監察総監様の側近である江利川総会長の下で働くため、日本サンクチュアリ協会に移籍しました。

青字は川原さん、赤字は森さん、のように感じました。

(冒頭の蛇足)


私は下記の中身を知りません(御言葉でないので、読みません)。
ですが、ブログ村で、タイトルだけは見ています。


上記の論点は、全く知りません。
しかし今回、下記の御言葉を読んでいて、本論最後のブロック(「末尾の蛇足」の手前)の、青字は川原さん、赤字は森さん、のように感じました。


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から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)


堕落とは何ですか?

堕落とは何ですか? 前後関係が逆さまになったのです。上が下になり、下が上になったというのです。先になるべきものが後になり、後になるべきものが先になりました。相対になるべきものが主体になり、主体になるべきものが相対になったのです。前後関係が行き違いました。


 ですから、どちらが主体かというとき、「天のものが主体だ」という絶対的な観念が必要です。何が主体なのですか?(「天のものです」)。天のものが主体です。「私」と言えば、私が主体ではないというのです。私は天の前に対象として立った「私」です。その対象として、私というものが主体の要件の前に一致化できないときは、対象の価値がなくなります。それが原理観だというのです。私の目も、主体としての目ではなく、何としての目ですか? 口は? 手足は? 私の全体は? 対象としての私です。


ために生きる対象やために生きる主体は滅びません。

 ですから、ために生きる対象やために生きる主体は滅びません。皆さんはそれを知らなければなりません。分かりますか? ために生きる対象やために生きる主体は滅びないのです。ために生きる主体がいれば、ために生きる一つの対象がいなくても、その対象が現れてくるようになるのです。対象がために生きているのに、その主体が現れていなくても、最後まで行けば現れるようになります。そのようになっているというのです。皆さんはこれをはっきりと知らなければなりません。

その主体のために生きることが、結局は自分のために生きることなのです。最後まで主体のために生きてみると、結局は自分に帰ってきます。結局は主体までも占領できるのです。孝の道や忠の道というのは何ですか? 主体に対して完全に占領しようということです。このようになるのです。


 信仰生活もそれと同じです。今日の統一教会の教会員の中で、誰かが「私が主体だ」と言う言葉をひと言聞いただけでもかっとなって怒り、血を見てはじめて「それでも当然だ」という人がいれば、見込みがないというのです。そのような人は統一教会に出てきてはいけないというのです。出てきてはいけません。いくら出てきても通じないのです。そのような人は、天国に行こうと出てきたとしても、行くことができません。天国というものは、そのようにはなっていないのです。主体と対象の関係における順応の法度に従い、原理原則に和合できる道を行くようになっているのであって、自分がまた他の主体になり、「何がどうでこうで」と言うようにはなっていないというのです。


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(末尾の蛇足)


下記は、森さんに向けた引用ではなく(そのため「末尾の蛇足」として区別しました)、私自身をはじめ、皆への戒めだと思います。
(御父様に「一発叩かれる」機会が無いのは、幸いなのか、寂しいのか、分かりません。)

 ですから、先生が人を見れば、「ああ、あの人は何年ものだ。私が一発叩けば、間違いなく離れる群れだ」、そのように考えるときが多いのです。しかし、世の中にいるので、あらゆる階層の発展と秩序というものを考えるとき、それも必要です。木を見てみれば、虫に食われた木があります。その葉の半分を虫に食われた木を見て、「ああ、私は虫に食われた木の葉は嫌いだ」と言いながら、それをすべて燃やしてしまえば、その木は死んでしまうのです。新しい春になるときまで、虫が食わないその日を願って待たなければなりません。このように考えているというのです。それが皆さんに対する先生の心情です。

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