③原理原本から「神がされることに対して喜び、感謝する態度であったならば、カインもまた神の側に立つようになる」
原理原本106頁から引用します。
善の血が流されたとしても善の一つの基本的中心土台を築こうと神は努力した
汚れた血を世界から断つためには、すべての人間が神に属するようになることが問題で あったが、この工作を助け絶対服従する人間はごく稀であった。そのため、善の血が流されたとしても善の一つの基本的中心土台を築こうと神は努力したのであった。その努力の成果を得て、全世界の悪の血がすべて善の血によって清められたのちに初めて神はみ旨成 就を始めることができるというのが原理であった。
過ぎし日において、神の愛する人間たちが悪なる者によって命を奪われるようにされたのは、彼らによって世界の悪の血を清めるため、蕩減的立場で死ぬようにされたのである。
次の過去記事があります。
原理原本113頁から引用します。
神がされることに対して喜び、感謝する態度であったならば、カインもまた神の側に立つようになる
原理的に神が愛するのはカインよりアベルであることから、アベルの祭物 を受けられカインの祭物は受けられなかったのである。
このときカインは、たとえ祭物が受け入れられなかったとしても、神の側に立つために神の愛するアベルを愛し、自分が愛を受けられなかったことに対して後悔しながら、再び神の愛を受ける道を求めていたならば、すなわち神がされることに対して喜び、感謝する態度であったならば、カインもまた神の側に立つようになるのである。原理的でないサタ ンが所有する者は、そのようにして不順圏内から従順圏内に移されるのである。
次の過去記事があります。
「おまえはもはや足りている。この事については、重ねてわたしに言ってはならない。」 - 群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)
モーセは、自分でなくても、ヨシュア達がカナンに入れることを、喜ぶべきでした。
(それ以前に、不信する民でも、磐石の水を飲ませられることを、喜ぶべきでした。)
僕は、主人を恐れていても、タラントを預かれることを、喜ぶべきでした。
「血痕」でさえ、喜ぶべきだと悟ります。
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から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)
たとえ犠牲や苦しみの中にあっても喜びで満たされ
私たちの心が、たとえ犠牲や苦しみの中にあっても喜びで満たされ、私たちの子供たちや妻や家族も、来るべきあなたの王国へ向かって前進するために参加できるように、賢くなれるようにと祈ります。
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その後書いた記事です。