群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)

私ども夫婦は、2015年8月30日に米国サンクチュアリ教会本部で行われた「真の御父様の聖和3周年記念礼拝」(蘇生期・真の基元節)および「真の御父様の権威に戻るための祝福式」に参加し、同日の夜、日本において「真の御父様の権威に戻るための祝福式」を行うための、任命の祝祷を受けました。
2015年12月30日にCyberサンクチュアリ人協会の会長を辞め、文鮮明真の御父母様・文亨進二代王様・文國進監察総監様の側近である江利川総会長の下で働くため、日本サンクチュアリ協会に移籍しました。

「内部批判」への批判

まず、「広義」の内部批判については、下記から、自分の言葉を引用します。
「御言葉」よりも「内部の争い」に関心のある人達 - 群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)

ローデスさんと誰か(ジャマールさん)が戦った時など、「内部の争い」について、二代王様によって解決済みだと思っていました。

「両方とも、二代王様を支える人達だ」

「外に向かって弾を打て」

「教会は政府ではなく、銃で強制したりしない」


次に、「狭義」の内部批判については、下記から、王妃様の御言葉を引用します。
「どこにでも喧嘩をする人はいます。」 - 群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)

それが嫌だと言う人は新しく自分たちで作れば良いのです。嫌なのに無理に一緒にする必要はありません。自分で牧会者の立場に立ち、どれ程大変なことか知って。


森さんは、それを実践しています。
森さんは、「狭義」の内部ではありません。



から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)

難しいことをするために、発展するために常に難しいことがある。苦労がある。その苦労を通して放棄する奴らは、常に被害者の意識を持って自分は責任を持たないで他の人を常に言い訳をする。あの人のせいで、あの人のせいで、あいつは何だ、あいつは!自分が責任を持たない。それが左派野郎だ。左派の奴らはそうだ。責任を持たない。


「映画製作」「責任者」「軍備・武道・銃」 - 群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)
から、自分の言葉を引用します。

これは「プロジェクト責任者」の御言葉です。

ですから、「責任者」にはなりたくないと思います。

「大陸責任者」は、もっと大変です。

ですから、江利川会長を尊敬しています。

ですから、私は「左派野郎」ではないと思います。


北関東エリア世話人(日本サンクチュアリ協会) - 群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)
から、自分の言葉を引用します。

「エリア世話人」は、「教区長」とは違い、主な役割は「協力」「助けてあげること」です。

(そして無給です。)

エリア世話人の上に、各教会があり、その上に各家庭があると考えています。
日本サンクは「逆ピラミッド」であると信じています。

「神様は、24時間なら24時間いつでも、この地上に生きている人間たちに対して無関心ではいられない」

一昨日の記事で引用した、パンザー会長の言葉を再掲します。

第一は、生ける永遠の神と一つになり、宗教を通してではなく、生きた関係として、神の成熟した子供、キリストの共同相続人としての地位を主張できるような関係を持ちたいという父の切望を体験するためのその探求です

そのような関係を持つ上で、参考になる御言葉です。



から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)


神様は、24時間なら24時間いつでも、この地上に生きている人間たちに対して無関心ではいられない

信仰生活をする人にとって、神様との関係を離れてはその生活が成立しません。言い換えれば、神様がいらっしゃるなら、その神様と私たち、または私がどのくらい密接な関係をもっているのか、あるいは生活過程でその関係をもつことはもちろん、その生活を通して、一生という生涯路程をどのように連結させていくのか、という問題が最も重要なことです。


 もし堕落圏内にいる人間たちを救おうとされる神様がいらっしゃるなら、その神様は、24時間なら24時間いつでも、この地上に生きている人間たちに対して無関心ではいられないことをまず知らなければなりません。


 この地上の堕落した世界でも、愛する子女をもつ父母がいれば、その父母も子女に対しては24時間、自分が目を開けて意識がある限り、いつも考えるのです。子女を考える以上の困難なことがあるときは分かりませんが、そうでない限り、堕落した世界でも、いつでも子女を考えざるを得ないのが父母の心情であることを私たちは知っています。

 「私が行こうと来ようと、どんな行路に立っていても、あるいはどんな環境にいても、その場には私だけがいるのではない、天が共にある、私が見て感じるすべて、あるいは環境にあるあらゆるものを認識するのは、私だけが認識するのではない、私が見る視線を通して神様が私に求める、そのような同感の視線がここに手助けしていて、私が出す手には、天の同情のみ手が宿っている」、このような立場に立っていることを、私たちは忘却しやすいのです。見て、感じて、感覚するあらゆることは、天と主体対象の関係で一体的に行動していることを実際に感じる人がいれば、その人は悪の場に出ていこうとしても出ていくことができないでしょう。他のことをしようとしてもできないでしょう。


何かを教えてくれるのです。

 私が聞き語る、このあらゆることも、平面的ではなく立体的でなければなりません。私が「あなた」と言えば、「あなた」と言うときにも、その響く音波の伝達としてだけでなく、その裏面には必ず心情的内情が天と共に加重されているという立場で語り、聞くときも、やはりそのような面を聞くことができる、このような体恤的な立場が何よりも貴いのではないですか?


 このような生活を皆さんがするようになれば、飛んでいく鳥の鳴き声も偶然ではありません。吹いてくる風の音も偶然ではありません。朝に昇ってくる太陽の光も、自分には無限なその何かを教えてくれるのです。このような環境的な土台の上で、これをどのように自分が体恤するのか、私が体でどのように感じて体験をするのか、それをどのように感じるのかが問題なのです。


私は善の立場に立っているため、悪を除去させることができる主体的な側ではないのか?

 このような環境ではじめて私だけではないというそのような境地になり、自分自らが「私はこのような人である。神様がいらっしゃる。その方は全知全能の神様であられる。神様と私とは一つだ」という自覚した立場に立ち、自分のあらゆる所信を一つの目的に決定的に集中させて進み出るようになるとき、そこには新しいことが起こるのです。人間が想像できない新しい結果が起こるようになるというのです。


 そのような体恤的な場で、自分の新しい自覚をどのように確定するのかというのです。暴風雨が吹いてくるそのような環境の先端の場に立ったとしても、押し出されない自覚、いかなる困難な死線が私の前に立ち塞がることがあっても、それは問題にならないという自覚をしなければなりません。また、「神様は生きていらっしゃる。神様はあらゆる悪を審判する公義の主人公であられ、善に対しては絶対的な保護の権限、悪に対しては絶対的な審判の権限をもっていらっしゃる。それで私は善の立場に立っているため、悪を除去させることができる主体的な側ではないのか?」、このように自覚する立場で、はじめて神様に代わることができる道が開かれるようになるのです。


悪の環境であれば悪の環境であるほど、悪が勝利するよりも、善なる天の前に屈伏するよう、そのように打開させられていく

 真であられる父母の心情をもって訪ねてこられたその神様が、父的愛をもった主体であられる方だと考えるとき、私たちがどれほど神様のために心配し、その方が心配されるのではないかと自らの生活を節制し、あるいはその方が苦痛を感じるのではないかと自らの環境を整理しながら、随時天を第一とし、自らの環境的なあらゆることを相対的与件として一致化させるための努力をしているのか、そのような努力をしている人であれば、その人は一人でいても一人でいるのではありません。


 もしそのような立場にいて、天が同情し、天が見るとき、「私がおまえを守った甲斐があったと感じる」と言われるなら、天がそのような人に対して……。その人が被害を受けたり、あるいは傷つけられる環境にいるようになれば、その場は天が傷つけられる場であり、天の悲しみが直接的に連結される場なので、その環境が悪の環境であれば悪の環境であるほど、悪が勝利するよりも、善なる天の前に屈伏するよう、そのように打開させられていくものであることは、言うまでもないことです。

青字は川原さん、赤字は森さん、のように感じました。

(冒頭の蛇足)


私は下記の中身を知りません(御言葉でないので、読みません)。
ですが、ブログ村で、タイトルだけは見ています。


上記の論点は、全く知りません。
しかし今回、下記の御言葉を読んでいて、本論最後のブロック(「末尾の蛇足」の手前)の、青字は川原さん、赤字は森さん、のように感じました。


****



から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)


堕落とは何ですか?

堕落とは何ですか? 前後関係が逆さまになったのです。上が下になり、下が上になったというのです。先になるべきものが後になり、後になるべきものが先になりました。相対になるべきものが主体になり、主体になるべきものが相対になったのです。前後関係が行き違いました。


 ですから、どちらが主体かというとき、「天のものが主体だ」という絶対的な観念が必要です。何が主体なのですか?(「天のものです」)。天のものが主体です。「私」と言えば、私が主体ではないというのです。私は天の前に対象として立った「私」です。その対象として、私というものが主体の要件の前に一致化できないときは、対象の価値がなくなります。それが原理観だというのです。私の目も、主体としての目ではなく、何としての目ですか? 口は? 手足は? 私の全体は? 対象としての私です。


ために生きる対象やために生きる主体は滅びません。

 ですから、ために生きる対象やために生きる主体は滅びません。皆さんはそれを知らなければなりません。分かりますか? ために生きる対象やために生きる主体は滅びないのです。ために生きる主体がいれば、ために生きる一つの対象がいなくても、その対象が現れてくるようになるのです。対象がために生きているのに、その主体が現れていなくても、最後まで行けば現れるようになります。そのようになっているというのです。皆さんはこれをはっきりと知らなければなりません。

その主体のために生きることが、結局は自分のために生きることなのです。最後まで主体のために生きてみると、結局は自分に帰ってきます。結局は主体までも占領できるのです。孝の道や忠の道というのは何ですか? 主体に対して完全に占領しようということです。このようになるのです。


 信仰生活もそれと同じです。今日の統一教会の教会員の中で、誰かが「私が主体だ」と言う言葉をひと言聞いただけでもかっとなって怒り、血を見てはじめて「それでも当然だ」という人がいれば、見込みがないというのです。そのような人は統一教会に出てきてはいけないというのです。出てきてはいけません。いくら出てきても通じないのです。そのような人は、天国に行こうと出てきたとしても、行くことができません。天国というものは、そのようにはなっていないのです。主体と対象の関係における順応の法度に従い、原理原則に和合できる道を行くようになっているのであって、自分がまた他の主体になり、「何がどうでこうで」と言うようにはなっていないというのです。


****


(末尾の蛇足)


下記は、森さんに向けた引用ではなく(そのため「末尾の蛇足」として区別しました)、私自身をはじめ、皆への戒めだと思います。
(御父様に「一発叩かれる」機会が無いのは、幸いなのか、寂しいのか、分かりません。)

 ですから、先生が人を見れば、「ああ、あの人は何年ものだ。私が一発叩けば、間違いなく離れる群れだ」、そのように考えるときが多いのです。しかし、世の中にいるので、あらゆる階層の発展と秩序というものを考えるとき、それも必要です。木を見てみれば、虫に食われた木があります。その葉の半分を虫に食われた木を見て、「ああ、私は虫に食われた木の葉は嫌いだ」と言いながら、それをすべて燃やしてしまえば、その木は死んでしまうのです。新しい春になるときまで、虫が食わないその日を願って待たなければなりません。このように考えているというのです。それが皆さんに対する先生の心情です。