一昨日の記事で引用した、パンザー会長の言葉を再掲します。
第一は、生ける永遠の神と一つになり、宗教を通してではなく、生きた関係として、神の成熟した子供、キリストの共同相続人としての地位を主張できるような関係を持ちたいという父の切望を体験するためのその探求です
そのような関係を持つ上で、参考になる御言葉です。
から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)
神様は、24時間なら24時間いつでも、この地上に生きている人間たちに対して無関心ではいられない
信仰生活をする人にとって、神様との関係を離れてはその生活が成立しません。言い換えれば、神様がいらっしゃるなら、その神様と私たち、または私がどのくらい密接な関係をもっているのか、あるいは生活過程でその関係をもつことはもちろん、その生活を通して、一生という生涯路程をどのように連結させていくのか、という問題が最も重要なことです。
もし堕落圏内にいる人間たちを救おうとされる神様がいらっしゃるなら、その神様は、24時間なら24時間いつでも、この地上に生きている人間たちに対して無関心ではいられないことをまず知らなければなりません。
この地上の堕落した世界でも、愛する子女をもつ父母がいれば、その父母も子女に対しては24時間、自分が目を開けて意識がある限り、いつも考えるのです。子女を考える以上の困難なことがあるときは分かりませんが、そうでない限り、堕落した世界でも、いつでも子女を考えざるを得ないのが父母の心情であることを私たちは知っています。
「私が行こうと来ようと、どんな行路に立っていても、あるいはどんな環境にいても、その場には私だけがいるのではない、天が共にある、私が見て感じるすべて、あるいは環境にあるあらゆるものを認識するのは、私だけが認識するのではない、私が見る視線を通して神様が私に求める、そのような同感の視線がここに手助けしていて、私が出す手には、天の同情のみ手が宿っている」、このような立場に立っていることを、私たちは忘却しやすいのです。見て、感じて、感覚するあらゆることは、天と主体対象の関係で一体的に行動していることを実際に感じる人がいれば、その人は悪の場に出ていこうとしても出ていくことができないでしょう。他のことをしようとしてもできないでしょう。
何かを教えてくれるのです。
私が聞き語る、このあらゆることも、平面的ではなく立体的でなければなりません。私が「あなた」と言えば、「あなた」と言うときにも、その響く音波の伝達としてだけでなく、その裏面には必ず心情的内情が天と共に加重されているという立場で語り、聞くときも、やはりそのような面を聞くことができる、このような体恤的な立場が何よりも貴いのではないですか?
このような生活を皆さんがするようになれば、飛んでいく鳥の鳴き声も偶然ではありません。吹いてくる風の音も偶然ではありません。朝に昇ってくる太陽の光も、自分には無限なその何かを教えてくれるのです。このような環境的な土台の上で、これをどのように自分が体恤するのか、私が体でどのように感じて体験をするのか、それをどのように感じるのかが問題なのです。
私は善の立場に立っているため、悪を除去させることができる主体的な側ではないのか?
このような環境ではじめて私だけではないというそのような境地になり、自分自らが「私はこのような人である。神様がいらっしゃる。その方は全知全能の神様であられる。神様と私とは一つだ」という自覚した立場に立ち、自分のあらゆる所信を一つの目的に決定的に集中させて進み出るようになるとき、そこには新しいことが起こるのです。人間が想像できない新しい結果が起こるようになるというのです。
そのような体恤的な場で、自分の新しい自覚をどのように確定するのかというのです。暴風雨が吹いてくるそのような環境の先端の場に立ったとしても、押し出されない自覚、いかなる困難な死線が私の前に立ち塞がることがあっても、それは問題にならないという自覚をしなければなりません。また、「神様は生きていらっしゃる。神様はあらゆる悪を審判する公義の主人公であられ、善に対しては絶対的な保護の権限、悪に対しては絶対的な審判の権限をもっていらっしゃる。それで私は善の立場に立っているため、悪を除去させることができる主体的な側ではないのか?」、このように自覚する立場で、はじめて神様に代わることができる道が開かれるようになるのです。
悪の環境であれば悪の環境であるほど、悪が勝利するよりも、善なる天の前に屈伏するよう、そのように打開させられていく
真であられる父母の心情をもって訪ねてこられたその神様が、父的愛をもった主体であられる方だと考えるとき、私たちがどれほど神様のために心配し、その方が心配されるのではないかと自らの生活を節制し、あるいはその方が苦痛を感じるのではないかと自らの環境を整理しながら、随時天を第一とし、自らの環境的なあらゆることを相対的与件として一致化させるための努力をしているのか、そのような努力をしている人であれば、その人は一人でいても一人でいるのではありません。
もしそのような立場にいて、天が同情し、天が見るとき、「私がおまえを守った甲斐があったと感じる」と言われるなら、天がそのような人に対して……。その人が被害を受けたり、あるいは傷つけられる環境にいるようになれば、その場は天が傷つけられる場であり、天の悲しみが直接的に連結される場なので、その環境が悪の環境であれば悪の環境であるほど、悪が勝利するよりも、善なる天の前に屈伏するよう、そのように打開させられていくものであることは、言うまでもないことです。