①安倍晋三回顧録から:「多くの目に晒されることで、当然ながら、語る側にも自制が働きます。」
(昨日の記事で、百田尚樹「日本国紀」を引用した流れで、天暦元旦から、「安倍晋三回顧録」による記事在庫を放出したいと思います。)
から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)
最高の貴いものとして絶対信仰の対象としてこれをつくったのだ。
そこでこのものをつくる時、神様自身が未来の自分の状態(相対?)を育てるための栄養素としてつくったのだ。わかるか?「はい。」たったの一つしかない愛の相対を育つようにできる栄養素としてつくったために・・・。この一つの花を中心とした葉を見てもそのようにつくったのだ。このようなものをつくる時神様自身がどのようにつくったのかと言えば、絶対信仰をもってつくったのだ。ここに栄養素を全部すべて合わせてここで吸収して今後において食べて生きるオモニの体を育てるための栄養素として創造したために最高の貴いものとして絶対信仰の対象としてこれをつくったのだ。
自分自身を投入して忘れて投入してつくったのだ。
そのために神様が誰よりも愛する。愛し、愛するために創ったものであるが絶対信仰の基盤の上につくった。絶対信仰・絶対愛、その上に立ててすることが絶対服従だ。自分自身を投入して忘れて投入してつくったのだ。そのために存在する世界が自分のために生まれたのは一つもないのだ。主人のために、愛の相対のために生まれたのだ。
「創造の心情」を忘れるべきではないことを思い出し、反省します。
「ブログを書いているお陰で、御言葉をただ読むだけでなく、反省できる」という類似で、下記の在庫記事を放出します。
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「安倍晋三回顧録」から引用します。
多くの目に晒されることで、当然ながら、語る側にも自制が働きます。
それでも、退任後できるだけ早く振り返ってもらおうと思った第一の理由は、記憶が生々しい状態で語ってもらうことで、より真実に近づくことができると考えたからです。
また、政治家に限りませんが、回顧録には濃淡の違いはあれ、自己正当化が付きまといます。 それは避けられないことです。時が経てば、本人は意識しなくとも正当化や美化の度合いがさらに強くなるのは普通です。それを少しでも相対化できるのは、直截的な言い方をすれば、「回顧録」を関係者の前に晒すことです。これが第二の理由です。事実の見方は決して一つではありま せん。英国の歴史家E・H・カーがいみじくる指摘したように、「歴史とは解釈」(『歴史とは何 か』岩波書店)なのです。いくつもの解釈があり得るのです。そのためにも関係者に反論の余地を残しておくことが肝要です。多くの目に晒されることで、当然ながら、語る側にも自制が働きます。すばやく「回顧録」が出されることで、日本の政治に何が起きていたのか、より多角的に光が当てられることになります。
「回顧録」=「証」として、次の過去記事があります。
私の証 - 群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)
「2ドルでバラはいかがですか?3ドルでカーネーションはいかがですか?」 - 群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)
「霊界に行ってもこのような話以外にすることがない。」 - 群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)
日本のサンクチュアリに何が起きていたのか、に光は当てられていない、個人の証です。