「御霊によって歩きなさい。」
から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)
皆さん、今日はガラテヤ書5章です。
5:16わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
5:17なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。
5:25もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。
聖霊に屈服しなければならない(16節)
すべての霊的対立で、信徒は聖霊に屈服しなければならない。
つまり、自分の欲求を捨て、聖霊に服従しなければならない。神が喜ぶような人生を送ることができるように、聖霊に頼り助けを得なければならない。
日常生活から罪を無くす(17節)
キリスト教徒は肉体の悪しき渇望から逃れるために聖霊に服従するなら、彼は聖霊によって導かれる。そうすることで、彼の日常生活から罪を無くすことになる。
「導き」という単語は自発的屈服を暗示している。信徒は肉体によって導かれるか、聖霊によって導かれるかを選ぶことができる。聖霊で導かれる者は、律法の下にいない。彼が倫理的生活をし不道徳なことをしないように聖霊が導き、主管するため、律法の制限は必要ない。
聖霊が新しい命を下さった(25節)
改宗するときは我々に聖霊が新しい命を下さったので、我々は生涯あなたの導きと勧告に従わなければならない。
異端者?パウロ 再読「見捨てられた我らの父」から - 群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)
で引用した、御言葉を思い出します。
バプテスマ
新約聖書におけるバプテスマは、信者が天の御国に入るために罪の赦しを受けるための唯一の手段でした。
ペテロとパウロが信じていたように、バプテスマによってのみ、信者はイエスの死と復活を受けることができるのです。
この儀式に服従した後、クリスチャンは律法のすべての文字に従わなければなりませんでした。
パウロが心の割礼を主張したことは、彼の著作を旧約聖書と新約聖書に結びつける要となり、また、罪の赦しのためのバプテスマは一つしかないという主張は、キリスト教を正統派ユダヤ教よりもさらに厳しく厳格な信仰にしました。
二箇所の赤字の「矛盾」は、「自由」か「強制」かの違いです。
罪(肉体)から解放されているか、拘束されているかの違いです。
(菅井さんと私の違いかも知れません。)