群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)

私ども夫婦は、2015年8月30日に米国サンクチュアリ教会本部で行われた「真の御父様の聖和3周年記念礼拝」(蘇生期・真の基元節)および「真の御父様の権威に戻るための祝福式」に参加し、同日の夜、日本において「真の御父様の権威に戻るための祝福式」を行うための、任命の祝祷を受けました。
2015年12月30日にCyberサンクチュアリ人協会の会長を辞め、文鮮明真の御父母様・文亨進二代王様・文國進監察総監様の側近である江利川総会長の下で働くため、日本サンクチュアリ協会に移籍しました。

異端者?パウロ 再読「見捨てられた我らの父」から

タイトルに「?」を入れた点が、昨日のルターとの違いです。
しかし、ルターを異端者にした責任はパウロにあるようです。




から引用します。(翻訳・掲載・出版に感謝申し上げます。)


責任

パウロがいなければ、初代教会はグノーシスの異端に悩まされることはなかったでしょう。

パウロは自分自身とキリスト論をユダヤ教から切り離しました。


対立

パウロは今度は2回目の宣教の旅に出ました。そこで、エルサレム教会の代表者たちは、パウロ、ペテロ、バルナバが割礼をしていない異端者たちと食事をしているのを発見しました。この発見はスキャンダラスなものでした。ペテロとバルナバは自分たちの行為を悔い改め、パウロのもとを去りました。パウロは激怒し、ガラテヤ人への手紙の中で次のように書いています。


そして、かの「重だった人たち」からは――彼らがどんな人であったにしても、それは、わたしには全く問題ではない。神は人を分け隔てなさらないのだから――(中略)ところが、ケパ(ペテロ)がアンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしは面とむかって彼をなじった。というのは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、彼は異邦人と食を共にしていたのに、彼らがきてからは、割礼の者どもを恐れ、しだいに身を引いて離れて行ったからである。そして、ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがそのような偽善に引きずり込まれた。(ガラテヤ人への手紙2:6-14)。


妥協

コリントに到着して間もなく、パウロは教会評議会との会議のためにエルサレムに召集されました。パウロが現れるやいなや、ヤコブはパウロにこう言いました。「あなたは異邦人の中にいるユダヤ人一同に対して、子供に割礼を施すな、またユダヤの慣例にしたがうなと言って、モーセにそむくことを教えている、ということである。どうしたらよいか。」(使徒行伝21:21)ヤコブはパウロにナザリテの誓いを立て、清めの儀式を受け、神殿で供え物をするように命じました。教会の長老たちに囲まれていたパウロは、従うしかありませんでした。


孤立

ローマ市民であるパウロは、ローマのカエサリアの監督官であるフェリックスの前で自分の訴えを聞かせることに成功しました。ペストゥスは、パウロの告発者を解任しましたが、パウロを2年間軟禁しました。ユダヤ人キリスト教徒は一人もパウロを弁護しませんでした。どうやら、ヤコブ、教会評議会、原始共同体のメンバーは、トラブルメーカーとの関係を断っていたようです。


曖昧

人生の最後まで、パウロの律法に対する見方は曖昧なままでした。パウロは、律法は確かに聖なるものであり、その命令は「聖なる、義となる、善い」(ローマ 7:12)と宣言していますが、パウロは律法を、人間の魂の中に王座を築いた悪の力の一つであると語っています。パウロは「律法を確立する」(ローマ3:31)と主張していますが、パウロは「律法がないところには違反なるものはない」(ローマ4:15)と付け加え、戒めを守っても誰も義とされることはないと付け加えています。パウロは、律法は罪を表すものではないと主張していますが、彼は続けて言います。「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。しかるに、罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた。すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである。」(ローマ人への手紙7:7-8)。


解決

パウロの書簡の中の曖昧さは、パウロ自身によって解決され、クリスチャンは心の割礼を受けなければならないので、律法から免除されることはないと主張しました。ローマ人への手紙の中で彼は次のように書いています。「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。」パウロはコロサイ人への手紙の中で、クリスチャンはバプテスマの秘跡を受けるときに、心の割礼を受けることができると主張しています。


バプテスマ

新約聖書におけるバプテスマは、信者が天の御国に入るために罪の赦しを受けるための唯一の手段でした。

ペテロとパウロが信じていたように、バプテスマによってのみ、信者はイエスの死と復活を受けることができるのです。

この儀式に服従した後、クリスチャンは律法のすべての文字に従わなければなりませんでした。

パウロが心の割礼を主張したことは、彼の著作を旧約聖書と新約聖書に結びつける要となり、また、罪の赦しのためのバプテスマは一つしかないという主張は、キリスト教を正統派ユダヤ教よりもさらに厳しく厳格な信仰にしました。


しかし「曖昧」を残したために、グノーシス主義(聖書を相対化する)という「異端」が、ルターを経て、現代のキリスト教を支配する道を開いてしまいました。

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