もう一度 御言葉「体恤信仰の重要性」から
礼拝の感謝祈祷で、「多くのアドバイスを地に落とすことがないように」と祈祷しましたので、努力したいと思います。
神様と共に、その性稟が完全に共鳴できる心の姿勢
それでは、信仰生活で最も注意しなければならないこととは何でしょうか。あることに対するとき、ささいなことであろうと、大きなことであろうと、事のいかんにかかわらず、個人的に対してはならないということです。言い換えれば、皆さんの心がぱんと張っていなければならないのです。空気をぱんぱんに入れて、完全に丸くなったボールのような心の姿勢を持つのです。ぺちゃんこではなく、完全にぱんと張ったボールのような心の状態にならなければならないというのです。そうではなく、不安な心や、あるいは個人の欲望を中心とした邪悪な心をもてば、丸いボールのような心に角が生じます。
そのため、信仰生活をする人には、瞑想の時間が必要なのです。良いことを思い描きつつ瞑想をしなさいというのです。瞑想をするときは、心の門を開け放ち、心を丸くして、神様ならば神様を中心として、神様の本性と私の本性が完全に授受できるように、春の季節に該当する人であれば、春の季節の主体であられる神様と共に、その性稟が完全に共鳴できる心の姿勢をもたなければなりません。このように共鳴した内容を中心として、自分が要求する目的に接するようになれば、必ず神様が共にいてくださるのです。
また、そのような共鳴を感じられない立場で物事に接するときには、「神様はこのことを望んでいらっしゃる。私と直接的な関係を結んでいることを感じることはできないが、関係は結んでいる。神様が先にこのことに介入していらっしゃる。神様のみ旨がここにある。今は、このみ旨を中心として私が接触する瞬間だ」と考えればいいのです。あることをなすときに、私一人でしていると思ってはいけません。その物事自体を中心として見るときに、そこには必ず神様のみ旨が既にあるというのです。それゆえに、先を行っているそのみ旨に従っていき、そのみ旨との一致点に基礎を置かなければならないというのです。私たちの生活を総合してみれば、そのようになっています。
仕事も自分のことのように 真心を込めた心情
賃金をもらって針仕事をする人も同じです。お金をもらうために、あるいは利益を得るためにただ適当に仕事をしていれば、道がふさがれてしまうのです。しかし、その仕事も自分のことのように、私の愛する人の服のように真心を込めた心情ですれば、その服を着る人がそれに接するとき、「これは良いものだなあ」と言うのです。もし、体恤信仰をする人がいれば、精誠を尽くしたか尽くしていないかということを、すぐに鑑定してしまうというのです。すべての物事を、そのように注意して見なければなりません。
仕事をするときも、心と体が中心と一つになって一体を成すことができなければ、これは悪です。心と体が本当に一つになれば、それが四位基台です。仕事も同じです。四位基台が目的です。私の心と体が一つになり、その仕事と一体にならなければ、四位基台の目的が成し遂げられないので、その仕事は何の役にも立ちません。監督がいるから、だれかが見ているから仕事をするのですか。天国と地獄は空中にできるのではありません。皆さんの生活圏内で心と体が一つになり、三対象目的圏を中心として、創造原理の法度によって成されていくのです。
分別
円満な心で、邪心を断って共鳴する音叉のような心で、その物に深刻に対するようになれば、それがよいとか悪いという感情がわき出てきます。「それが私にプラスになるのか、でなければマイナスになるのか」、このようにいつも打診して確認しなければならないのです。
ですから、後退する可能性があることは絶対にしてはならないのです。その被害は、どれほど大きいでしょうか。一度後退すれば、それを立て直すのがどれほど大変か分かりません。一度間違いを犯せば、それを補充するのがどれほど大変かということを考えれば、落ちる可能性のあること、すなわちマイナスになる可能性があることは、考えることもしないというのです。そのようなものは見ようともしないのです。また、そのような人とは接しようとすらしません。
神様が喜ばれ、悲しまれることを、常に鑑別しながら暮らす人は、悪なる人になろうにもなることができず、天の法度に背こうにも背くことができません。そのような男性は、いくら美人が誘惑しても倒れません。そこに同化できないというのです。
柔和謙遜
人を見たとき、「あの人はどのような人だ」ということを分からなければなりません。その人の性質によってすべて違います。自分が人に対するとき、相手の人が自分よりも心情基準が低いというときは、自分の基準を低く調整して相手に対さなければなりません。そうでなければ、自分が打撃を受けます。
公的であれ私的であれ、神様が最も嫌われる人は、対人関係において、人を利用しようとする人です。そして、その次には、何でも自分の利益を中心として判断しようとする人です。神様が好まれる人は、譲歩する人です。譲歩とは何かというと、自分がその人についていくことです。その人が「こうしよう」と言うとおりについていくのです。ずっとついていけばまわるようになり、まわればあとから自分がその位置を占領するようになります。結局は、その人のすべてのものを占領できるのです。
ですから、常に柔和謙遜にして、その人が「こうしよう」と言うとおりに従順、服従、屈服しなければなりません。それはなぜかというと、その人を完全に占領するためです。人だけを占領するのではなく、その人のすべてを占領するための作戦です。従って、私たちの信仰世界においては、自分を否定し、その代わりに相手の要求に完全に順応していく作戦をとらなければなりません。それは、自分自体がなくなるのではなく、相手を完全に占領するための一つの作戦なのです。このようなことを、皆さんは生活で感知しなければなりません。
そのようにすれば、私は、いつでも商いをして損をせずに利益を残すというのです。このようになれば、その人が私を利用しようとしてその目的が果たせなくなるときには、その人に奪われたすべてのものをそっくりそのまま取り返すことができるのです。
素晴らしい相対的万物を造られたのだなあ
一日を何げなく生きてはいけません。
どんなことに対しても同じです。山なら山を見るとき、その山を中心として神様の創造性に接する感じ、美しいとか神秘的だという感じを通して、神様が私という一つの価値をこのように高貴にするために、あんなにも素晴らしい相対的万物を造られたのだなあということを感じ、喜んで、うれしく思いながら神様の前に賛美を返すようになるとき、そこから衝撃的な刺激を感じるのです。そのような立場で完全に授受すれば、一つになるので酔いしれるというのです。
そして、その中から離れたくなくなります。その中で寝転びたいと思い、幼子のような心になり、また父母と同じ心を感じることができるようになるのです。そのような感情は、何でもない自然を見る中でも感じることができます。あるいは、流れていく水を見ながらでも、いくらでも思索にふけることができるというのです。
このような体恤的な感度を高めていくようになれば、神様が創造しながら感じられた喜びまでも、共鳴して入ってくるようになるのです。
祈祷だけ十年する人よりも、一度訪ねていく人
祈祷は神様との公約です。祈祷は神様と人間との公約なので、これは誓いです。ですから、祈祷すれば必ず実践しなさいというのです。そして、一つの問題をもって毎日のように祈祷する必要はありません。心からの祈祷は一度するのです。そして、十年でも二十年でも、祈祷する姿勢で祈祷したことに出会うことを慕いもとめる心を持ちなさいというのです。そのような心を持って暮らす人が最も恐ろしい人です。
私がお父様の前に宣誓し誓ったので、十年、いや生涯そのことが訪れることを歓迎する姿勢で、そのことにどこで出会うかを考えながらそれを求める人は、祈祷したことが成される場に向かっている人です。祈祷だけ十年する人よりも、一度訪ねていく人が知恵深いのです。十年してそれを見つけたとすれば、その人はすでに祈祷の目的を成した位置に立つのです。ですから、実践が問題です。
****
「私たちが最大限良い牧師にならなければなりません。自分の家庭において。」
(お問い合わせ先:メール hori1447@yahoo.co.jp
電話番号 堀勇一070-6670-5334 堀久子070-6637-7424 )
任命式の映像はこちら