「皆一つの大きな幸せな家族のように暮らしていたという甘美で明るい時代ではなかった」
から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)
1.人間関係の争い
疑惑の人物
さらに、パウロと初代教会の主の兄弟であり、統治者であったヤコブとの関係は、非常に争いが多く、厄介なものでした。パウロについての記述の中で、デビッド・ウェナムは次のように書いています。「今日、私たちはパウロを重要で影響力のある人物と考えているかもしれません。しかし、すべての証拠は、彼が最初は多くのキリスト教徒から疑いの目で見られていたことを示しています。彼はエルサレムにはほとんど滞在しておらず、初期の教会の指導者としての役割も果たしていませんでした。」
アンティオキアでの事件
パウロは今度は2回目の宣教の旅に出ました。そこで、エルサレム教会の代表者たちは、パウロ、ペテロ、バルナバが割礼をしていない異端者たちと食事をしているのを発見しました。この発見はスキャンダラスなものでした。ペテロとバルナバは自分たちの行為を悔い改め、パウロのもとを去りました。
この対立について、新約聖書の学者ジェフリー・ブッツは次のように書いています。「アンティオキアの事件は、使徒時代が、今日のほとんどのキリスト教徒が思い込んでいるような、イエスの初期の信奉者たちが皆一つの大きな幸せな家族のように暮らしていたという甘美で明るい時代ではなかったことをはっきりと示しています。それどころか、様々な集団や派閥が覇権を争うようになった苦しい時代でもありました。」
2.神学の迷い
パウロの曖昧さ
人生の最後まで、パウロの律法に対する見方は曖昧なままでした。パウロは、律法は確かに聖なるものであり、その命令は「聖なる、義となる、善い」(ローマ 7:12)と宣言していますが、パウロは律法を、人間の魂の中に王座を築いた悪の力の一つであると語っています。パウロは「律法を確立する」(ローマ3:31)と主張していますが、パウロは「律法がないところには違反なるものはない」(ローマ4:15)と付け加え、戒めを守っても誰も義とされることはないと付け加えています。パウロは、律法は罪を表すものではないと主張していますが、彼は続けて言います。「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。しかるに、罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた。すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである。」(ローマ人への手紙7:7-8)。
心の割礼
パウロの書簡の中の曖昧さは、パウロ自身によって解決され、クリスチャンは心の割礼を受けなければならないので、律法から免除されることはないと主張しました。ローマ人への手紙の中で彼は次のように書いています。「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。」パウロはコロサイ人への手紙の中で、クリスチャンはバプテスマの秘跡を受けるときに、心の割礼を受けることができると主張しています。
今回は、ボブ・ディランでなく、ビートルズを思い出しました。
Isn't he a bit like you and me?
彼は、ちょっと、あなたや私のようではないか?
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