自由社会 原理講論との整合性
日本サンクチュアリ協会アーカイブの澤田さんと、2月の訪米以来、久しぶりに、一昨日に会いました。
2月13日を超えてから、サンクチュアリを知った婦人との面談に、同席して頂きましたことに感謝致します。
その婦人は、ご親族と、霊の血統圏と共に、サンクチュアリにいらっしゃる予定です。
そして澤田さんには、「自由社会」の文字起こしテキストについても感謝致します。
改めて読むことができました。
自由社会は反社会主義社会です。
これは、次に引用する原理講論506頁から508頁との整合性が気になるところです。
神の創造理想から見るならば、人間に与えられた創造本然の価値においては、彼らの間にいかなる差異もあるはずがない。
したがって、神は、あたかも我々人間の父母がその子供たちに対するように、だれにも均等な環境と平等な生活条件とを与えようとされるのである。
あたかも君主主義の政治的な独裁を防いで、その主権を、人民のものとして取り戻すところから、民主主義が生じたように、国家の財産が、ある特定の個人階級に独占される帝国主義的な経済体制を打破して、人民が、それを均等に享有するようになる経済体制を樹立するために、社会主義を経て、天の側からは、共生共栄共義主義を指向し、サタンの側からはそれに先立って共産主義を指向するのである。
したがって、社会主義は、あくまでも真実なる民主主義的な経済社会をつくるために、生じたものであると見なければならない。
この問題について、私は昨年10月10日の当ブログ「天一国憲法公布の前夜」で、次のように書きました。
亨進様は「私有財産制」を支持しておられます。
原理講論にある「共生共栄共義主義社会」は「自由と責任」を通して成されるのでしょう。
御父様の自叙伝326頁から引用します。
>裕福な人は少し低い所に下りていき、貧しい人は少し上げてあげ、すべての人が等しく豊かに暮らす世界をつくらなければならないのです。
国進様は、もっと詳しく述べています。
黄金時代とも呼ぶべき200年間には、我々には自由がありました。
政府の介入なしに教育も医療のすべてが上手く機能していました。
欲しいものを買い、必要に応じてお金を使いました。
それだけでなく、福祉は民間で運営され、慈善は個人レベルでなされていました。
お互いを労わり合うのに、政府の介入が必要ですか?
政府が福祉事業を独占して福祉の質が上がりますか?
要するに政府が社会福祉と称して、介入していることによって、隣人を労わり合うその間に政府が割り込んできているのです。
思いやり、労わり合いの「仲介人」のごとく、政府が割り込んできているのです。
昔なら、あなたを助けたいと思えば、「私」が助けたのです。
あなたの目を見て話を聞き、あなたの事をよく知っていますから、あなたが不幸な目に出会ったと知れば、私が助けるのです。
自分の力で立ち上がれるように。
「国家の財産が、ある特定の個人階級に独占される帝国主義的な経済体制を打破して」も、「政府」によって再び「独占」されたのでは意味がありません。
それは「共生共栄共義主義」ではなく「共産主義」です。
「人民が、それを均等に享有するようになる経済体制を樹立する」こと、「真実なる民主主義的な経済社会をつくる」ことは、思いやりのある、Kタイプの、プロテスタント的な、サンクチュアリ共同体の責任です。
それは、再臨主を迎えることに失敗し、間違った「社会主義」に進む、キリスト教世界の蕩減復帰です。
その事実は、それに関する原理講論の文章と同じように、私達が理解するのは難しいことでした。
第二代王の時代になって、やっと理解できるようになりました。
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