群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)

私ども夫婦は、2015年8月30日に米国サンクチュアリ教会本部で行われた「真の御父様の聖和3周年記念礼拝」(蘇生期・真の基元節)および「真の御父様の権威に戻るための祝福式」に参加し、同日の夜、日本において「真の御父様の権威に戻るための祝福式」を行うための、任命の祝祷を受けました。
2015年12月30日にCyberサンクチュアリ人協会の会長を辞め、文鮮明真の御父母様・文亨進二代王様・文國進監察総監様の側近である江利川総会長の下で働くため、日本サンクチュアリ協会に移籍しました。

「国進兄さんも精誠を一生懸命に尽くして、そこに大きな組織ができる時、さらに驚くべき収穫が来ることでしょう。」


から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)

そうしてそこでは、クーシー郡があるでしょう、郡。あ、郡はなんというべきか、ですから市がたくさん集まった所、韓国にはないでしょう。それを郡、カウンティと言います、カウンティ。そのカウンティ長に会ったのですが、その方は牛を育てる、牧畜の専門家です。

その方はコミッショナー、カウンティ長なので、15年間カウンティ長をしたそうです。投票で受ける政治的な地位です。

私たちはテネシーモリスタウンの警察長官にも会いました。コミッショナー達と会いました。クリーンザカウンティのコミッショナー達と会いました。モリスタウンのコミッショナー、何人も既に会いました。清平を売って下さったその方もモリスタウンの王、モリスタウンコミッショナーですね。


このような保守に歓迎されて、私達の人が”保守が出会う会”にも行きました。まだ始めたばかりなのに既に歓迎しています。

左派の奴らは恐ろしいのです。左派は大騒ぎです。「ああ!銃器!銃器教会!ああ銃弾頭の王が来ている!ああ!」と。

しかし、保守は歓迎しています。歓迎、歓迎。


国進兄さんも精誠を一生懸命に尽くして、そこに大きな組織ができる時、さらに驚くべき収穫が来ることでしょう。(拍手)


下記記事を思い出しました。
10月14日・二代王様の御言葉 川原さんのメモから - 群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)
から引用します。

国進兄さんが、州知事になることがどれだけ大きなことか。ここから、天一国が始まるかもしれない。やりますか?


江利川会長の帰国報告礼拝(11月28日)でも、国進様に関連して、まだ公表できない「期待」の話をされていたと思います。


上記のことごとが、心に残っていましたが、なぜかしら私の頭の中で時が来たようで、記事にしました。

「私たち人間というものは、自分一人ではありません。」


から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)


共同目的を代わりに果たせる主体的な立場で、自我に対する自覚をしなければなりません。

 私たち人間というものは、自分一人ではありません。人間とはどのような存在ですか? 人間というのは自分一人ではないというのです。宇宙共同の因縁を総合し、結実体として現れたのが人間ではないですか? このような人間には、あらゆる万物相がすべて総合して入っているのです。私たちの先祖から受け継いだ、大勢の先祖たちのあらゆる素性がすべて投入されたというのです。


 金某と言えば、その某一人ではありません。その人には、植物、鉱物、動物、あらゆる万物の形態がすべて入っているというのです。顔は、今自分の顔のように感じていますが、その顔ができるときまでに数万年の歴史を経てきたのです。数万年にかけて先祖たちの血を受け継ぎ、そのように生じたのです。それは奇跡的な実体です。


 それだけでなく、その背後には天との因縁がついてきているので、その人が残ったのです。天との因縁を念頭において見てみるとき、無限な曲折の因縁を経て今日の自分をつくりあげてきたことを知らなければなりません。


 万物のあらゆる関係的存在が投入され、投影された実体が自分なのです。「私」と言うとき、その私というのは、今日の皆さんが制限された立場、常習化した自分の立場の「私」ではないのです。共同目的を代わりに果たせる主体的な立場で、自我に対する自覚をしなければなりません。


 人間はそのようになっています。ですから、一人で動いているからといって、一人で動いているのではないのです。宇宙の出動です。歴史の出動をしているのです。そのような意識で自分を実現するようになるとき、この人は偉大な仕事をすることができます。


何でもすることができます。

宇宙が動いて私一人を造成しているのです。歴史が動いて私一人を形成しているというのです。そのような実感を……。それは結実です。


 「その結実が輝く結実として現れよ、栄光の結実として顕現せよ、花咲き香り漂う私自身にならなければならないのではないか? 実を結ばなければならないのではないか?」、このような因縁を結んで出てきて、その因縁の主体が誰かというとき、人間ではなく天だというのです。天は、そこにおいて宇宙的な自我を発見し、体恤的な心情を論議していく者を冷遇することはできません。天がそのような者を冷遇すれば、存続することができないのです。そのような自覚圏内に立ち、神に対する体恤を感じる人は、何でもすることができます。

「私のために天の誠意と努力がどれほど大きかったか」


から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)


愛する方のあらゆるものを貴く感じられる

 神様の愛を受けている人たちは、自分が侍って生きている主体である父の愛を受けていることを考えるとき、愛する方のあらゆるものを貴く感じられるのではないかというのです。ここからすべてのものが収拾されるのです。愛する人のハンカチ一枚をもって、一生を孤独な立場で生活したとしても、その環境を克服できる主導的な力がその場にあることを、私たちはこの世の中でも見ることができます。


 それと同じように、神様が愛する人を自分も愛するのです。愛そうとするのです。神様が愛そうとするその人を私が破綻させることができますか? その人を協助しなければならないのではないですか? 神様が愛する人を私が軽視できますか? 歓迎しなければならないのではないですか?


 ここであらゆるものがつながり、あらゆるものが発展の動機になっている事実を、今日信仰する人たちは、信仰生活をしていながらも知らずにいるのです。


独り言でも「父よ」と言えなければなりません。

皆さんが寝ていても「父よ」と言うことができ、独り言でも「父よ」と言えなければなりません。世の中で人々が自分の相対を慕う、それ以上の慕わしさがこみ上げてこなければなりません。そして、御飯を食べるのも忘れ、寝るのも忘れながら、その生活の裏面で父に対する慕わしさをもって「父よ」と言えば、父がいないのに、父の手に捕まるようになるのです。そのようなことが起こります。夢のような事実が起こるのです。「父よ」と言えば、父の懐に抱かれるのです。このような表現的圏内で体恤的感情をどのように体得するのかということは、信仰生活で何よりも貴いことを皆さんは知らなければなりません。


 そのような体恤の感度、感じる度数、その量いかんがその人の信仰基準になり得るのです。そのような愛の心情をもったならば、どこかに行って「私がこれをしなければならない」というときは、「天よ、共にいてくださいますように」と言う前に、既に神様は共にいるのです。このようなことを皆さんが感じるようになるときは、「ありがたい神様」と思うようになるというのです。


外面的な環境と現在の自分の立場を和合させるものではない

 結局、信仰生活というものは、外面的な環境と現在の自分の立場を和合させるものではないということです。内面的なその生活の裏面を中心として、天と私との関係、父子関係の心情を体得し、その方と私とは一つだという心情を体得してはじめて、それを内面から外面化させるのです。このようにして全体の前に適応できる人であれば、その人は天の息子であり娘であることは間違いないでしょう。そのように生きる人は、間違いなく天国生活を代行する人になるのではないか、ということを皆さんは知らなければなりません。


神様の前に負債をつくることをしたのか、負債を蕩減することをしたのか

 ですから、仕事をして振り返るときは、「お父様、きょうの仕事はどうでしたか?」と言うことができなければなりません。私が私を中心として神様の前に負債をつくることをしたのか、私が神様の前に負債を蕩減することをしたのか、負債をつくることをしたなら、その仕事を終えて振り返るときに、涙して胸が痛む自分を発見できてこそ、正常な人です。


 ある仕事を終えて振り返るとき、「アボジ、カムサハムニダ(お父様、ありがとうございます)」という心がなければ、顔を上げることができず、その場を離れることができずに涙を浮かべ、帰ってきても悔い改める、そのような生活を継続しなければなりません。そうでない人は天の生活ができていないと見るのです。これが伝統的な信仰生活だと見なければなりません。

 自分はいいかげんに過ごしてきたのに、天は内外をより分けて自分を守っていたことを考えるとき、不孝この上ない自我を回想するそのとき、神様のことをありがたいと感じる、このようなことが多くなければなりません。ですから、その不孝この上ない恥ずかしいこと、その責任を果たせないこと、不快感を感じることは死んでもできない、という心をもたなければならないのです。

自分を考えるときは、私のために天の誠意と努力がどれほど大きかったかということを感じなければなりません。そうすれば、自分がこのように味気なく生きることはできないのです。いいかげんに価値なく立ち振る舞うことはできません。