群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)

私ども夫婦は、2015年8月30日に米国サンクチュアリ教会本部で行われた「真の御父様の聖和3周年記念礼拝」(蘇生期・真の基元節)および「真の御父様の権威に戻るための祝福式」に参加し、同日の夜、日本において「真の御父様の権威に戻るための祝福式」を行うための、任命の祝祷を受けました。
2015年12月30日にCyberサンクチュアリ人協会の会長を辞め、文鮮明真の御父母様・文亨進二代王様・文國進監察総監様の側近である江利川総会長の下で働くため、日本サンクチュアリ協会に移籍しました。

「私たちは自分の欲望や喜びのために生きません。」


から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)



神との関係は頭が良いとか、より力があるとかではなく、愛です。

例え天使たちが多くの権力を持っていても、異次元間での知能を持っていても、神様は価値を感じません。

例え彼等が私たちよりも頭がよくてパワフルであっても、神様の価値は私たちが彼の子女であるという事実にあります。私たちが神のイメージであるということです。私たちは神より好かれていて天使たちはそうではありません。彼等はよりAIロボットのようであり、機械のようです。

神はパワフルなもの、高い知能に全てを与えられるのではなく、神が最も愛する人類それは神の子たちに全ての相続を与えました。神との関係は頭が良いとか、より力があるとかではなく、愛です。


神の喜びのために私たちを形創られるのです。

テイム王ですらハーレーダビッドソンを得ようとしています。それ自体が奇跡です。テイムさんが奇跡なのではありません。彼自身は彼がハーレーダビッドソンに乗っている姿を想像したことはありません。


リチャード・パンザー会長もそうです。彼も人生の中でサングラスをかけて革ジャンを来てハーレーダビッドソンに乗る事を想像したことはありません。理解できますか?決してありませんでした。


しかし皆さん、それが神がなさる業です。私たちが考えもしないような私たちに、神はその栄光のために作り変えられます。それは神の喜びのためにもそうされます。神の子供であるということは何と素晴らしいことでしょうか。それは神が私たちを神の喜びのために私たちを形創られるのです。


神を喜ばせることは私たちの喜びです。

私たちは神が私たちを形作られる時に、子供として神に何をお返しすることができるでしょうか?孝行な子供として神を喜ばせることは私たちの喜びです。私たちの父に喜びをもたらすことは、私たちの人生を意味のあるものにして、まさに、それが私たちが生きる目的なのです。彼を幸せにして、自分たちが成長して発展して、神のために後世遺伝子を開いて継続的に神に感謝することです。


お父様がそれを願っておられるからするのです。

それは完全に真のお父様の血統と王権、彼が油注がれた血と肉、彼の王の血統との一体化なのです。美しい自然の中で風を受けながら、お父様に笑顔になって頂き、賛美を歌って神を賛美して、お父様に感謝すること以上の素晴らしいことがあるでしょうか?それ以上に素晴らしいことはありません。


それはまさしく私たちの人生の目的です。それは簡単です。お父様が私たちをご覧になって笑顔になられることです。それは私たちがそうしたいからするのではなく、お父様がそれを願っておられるからするのです。


皆さんは私が膨らんだ海のボートの上で、一日中吐きながら釣りをしたいと願うと思いますか?皆さんは私がそれを12時間以上もしたいと考えますか?全く違います。それは私に拷問します。しかし、私はそうしました。なぜなら私の父を幸せにできると知っていたからです。そしてそれが重要な全てです。それ以上に重要なことはありません。


私たちは自分の欲望や喜びのために生きません。

なぜなら最後には全てが愛なのです。私たちは自分のために生きません。私たちは自分の欲望や喜びのために生きません。私たちはお父様の喜びのために生きて、私たちはお父様を幸せにして差し上げるために、お父様の笑顔のために生きます。それが私たちが何故生きているかなのです。なぜ私たちが死ぬのかという理由です。簡単です。

興奮した1日を送ってください。何かの訓練をしてください。神の祝福と神の王国が神のスピードで訪れますように!

「アベル的キリスト教の人達を集める摂理」に意義と価値があると思います。


から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)


講演文選択の理由

お父様は米国人を初めてご覧になりながら、もちろん食口はいますが、食口ではなく一般米国人を初めてご覧になりながらどのような御言を語られるのか、これは特に米国がこのような危機にあるのでその時語られた御言をもう一度私たちが確認して、私たちが活動するのですが参考にすることが良いのではないかと考えてこの講演文を選択しました。



私の「余談」の材料

この宇宙は存在世界であることを私たちは知っています。それは誰もが認めています。存在するためには力がなければならないということを知っています。その力があるためには、力が先か存在が先かということが問題なのです。力がなければ存在もありません。ところが、その力というのは作用せずには現れないというのです。力が出る前に作用という現象が必ず必要です。


また、作用するならそこには力がある前に先行条件として主体と対象が絶対に必要であることが否定できません。この主体と対象がやり取りすることで働き、働くことによって力が存続するのです。つまり、力が出る前になければならないものが何かというと、主体と対象だということです。

このような御言葉は何度も読みましたが、上記太字の2つが矛盾するように見えることに、初めて気づきました。
考えた結果、上記赤字の「存在」は、「存在物」ではなく「存在状態」だと理解しました。



私の「本論」の材料

今ここにもイエス様を信じる人がたくさん来られたと思います。今信じているキリスト教ではだめなのです。そうしていくと、イスラエル民族のようにばらばらになってしまうかもしれません。今日、全世界に散らばっているキリスト教徒たちは、神様を中心として、一つになり再び来られる主が、この使命を持って来られるので、再び追放することがないように基盤を築く運動をしなくては、これからのこの世界の展望は悲惨だと考えざるを得ません。



上記に関するエルダー本部長の祈祷

その時、全ての米国国民が何も知らない所に来られて私たちを教育して下さいました。特にキリスト教徒達を対象に「今の現在のキリスト教を持ってしては駄目だ。キリスト教が一つになってこそメシアに会うことができる、救世主に会うことができる」このように御言を語られた事を考えるとき、今日の日も米国のキリスト教が一つになる事ができていないことを本当にお父様の前に悔い改めるしかありません。


二代王様は今、アベル的キリスト教、すなわち、キリスト教の教会に通っていなくても、キリスト教の基本的信仰を信じて、基本的倫理道徳を守る人達、その様な人達を集めて摂理をされていることを知っています。

エルダー本部長は、「一つになる」ことに注目していますが、「追放することがない」ことが、より核心だと思います。
だからこそ、「アベル的キリスト教の人達を集める摂理」に意義と価値があると思います。

「御霊によって歩きなさい。」


から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)

皆さん、今日はガラテヤ書5章です。

5:16わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。

5:17なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。

5:25もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。


聖霊に屈服しなければならない(16節)

すべての霊的対立で、信徒は聖霊に屈服しなければならない。

つまり、自分の欲求を捨て、聖霊に服従しなければならない。神が喜ぶような人生を送ることができるように、聖霊に頼り助けを得なければならない。


日常生活から罪を無くす(17節)

キリスト教徒は肉体の悪しき渇望から逃れるために聖霊に服従するなら、彼は聖霊によって導かれる。そうすることで、彼の日常生活から罪を無くすことになる。

「導き」という単語は自発的屈服を暗示している。信徒は肉体によって導かれるか、聖霊によって導かれるかを選ぶことができる。聖霊で導かれる者は、律法の下にいない。彼が倫理的生活をし不道徳なことをしないように聖霊が導き、主管するため、律法の制限は必要ない。


聖霊が新しい命を下さった(25節)

改宗するときは我々に聖霊が新しい命を下さったので、我々は生涯あなたの導きと勧告に従わなければならない。


異端者?パウロ 再読「見捨てられた我らの父」から - 群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)
で引用した、御言葉を思い出します。


バプテスマ

新約聖書におけるバプテスマは、信者が天の御国に入るために罪の赦しを受けるための唯一の手段でした。

ペテロとパウロが信じていたように、バプテスマによってのみ、信者はイエスの死と復活を受けることができるのです。

この儀式に服従した後、クリスチャンは律法のすべての文字に従わなければなりませんでした。

パウロが心の割礼を主張したことは、彼の著作を旧約聖書と新約聖書に結びつける要となり、また、罪の赦しのためのバプテスマは一つしかないという主張は、キリスト教を正統派ユダヤ教よりもさらに厳しく厳格な信仰にしました。


二箇所の赤字の「矛盾」は、「自由」か「強制」かの違いです。
罪(肉体)から解放されているか、拘束されているかの違いです。
(菅井さんと私の違いかも知れません。)