「心と体が一つになれなかった事を悔い改め、敬拝をお捧げ致します。」
から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)
イエスが立てる心の場、私生児として生まれて体心が一つになる環境になれなかったのだ。
ローマ問題がローマだけの問題ではない。心自体から問題だ。イエスが立てる心の場、私生児として生まれて体心が一つになる環境になれなかったのだ。サタン世界と激戦するその中で感謝できなかった。不平の心をもって出たのだ。不平する心がある為に体心が一つにならなかったのだ。不平な心の場から一つになっていくらむつかしくても耐えて出て‘神様が私に教えてくれるのではない。’と言える体心の一体権をどのように求めるのかというのだ。
天国に行ってもイエス様を見てもイエス様の体心が一つなって所願成就がなっていない。
「キリストは100%神様で100%人間」
「御父様とイエス様は同一」
これらの「神学」に「挑戦」するかのような御言葉です。
「淡泊・性急」な私としては、「神様も成長する」で解決できるのではないかと考えて、「通り過ぎる」ことを選びます。
体心が一つでなければまた落ちて降りて行くのだ。
一番の問題がそれだ。いくら努力して、いくら何の責任に対して、いくら天下の組織圏内で勝利覇権を持ったとしても覇権もってではだめだ。体心が一つでなければまた落ちて降りて行くのだ。上がって行って間違いなく活動すれば降りて行くようになっているのであって、上がって行くようになっていない。
‘あの近所に行って私がみ旨を広げればよい。’と言えば行かなければならない。
今我々が最後に越えたというが、皆さんが今や戻る所は何をもって戻るのかというのだ。何を持って戻るのか?心を前に立てて体を僕として働かせて体が行くのが嫌なことを完全に征服してしまわなければならない。‘あの近所に行って私がみ旨を広げればよい。’と言えば行かなければならない。その国に行ってそれをしなければならない。怨讐の国も訪ねなければならない。行ってぶつかってそこの環境から追い出されず歓迎されて出て来なければならないのだ。
結局、「怠惰」の問題になります。
私の体のままに心が一つになれば反対されるのだ。
皆さんが心一つ屈伏させることが一つの近所を屈服させることよりももっとつらいのだ。近所と争って近所を屈服させて、国と争って国を屈服させて、世界と争って世界を屈服させなければならない。世界のどの国であれ私が行きたいときには反対がいても行ってその環境を整理しておいて私の体のままに心が一つになれば反対されるのだ。心の前に一つになって体を完全に整理させておかなければならないのだ。
次の問題かも知れません。
妻も怨讐だ。
その次に妻がおれば妻を中心に体心が一つにならなければならない。妻も怨讐だ。妻を自分の思い通り命令すると聞くのは妻だ。それが怨讐だ。180%、200%以上のサタン主管圏内にいる人だ。
そのために私が良心的な基準におればサタンは女を通して攻略するのだ。どのようにするのであれ条件をかけて噛み千切ろうとするのだ。後ではその体が‘夫が死ねば良い。’と言って自分の思い通りしないようになれば、ペッ!死ぬ場で唾を吐いてしまうのだ。
怨讐の立場の女が福ではない。サタン世界の女を探してきたのだ。女がいない。
韓鶴子を含みます。
三番目の怨讐が息子娘だ。四番目の怨讐が家庭だ。
一番の問題が、一番の第一番目の怨讐が体であり、その次に二番目の怨讐が女であり、三番目の怨讐が息子娘だ。四番目の怨讐が家庭だ。四位基台を復帰するために四番目の家庭を訪ねて国まで認定させなければならない。そのためにそれが何かと言えば個人時代、家庭時代、氏族・民族、民族を越えてこそ国家が五番目に来るのだ。
「息子娘」のための「一対一子女の日」、「家庭」のための「氏族メシヤ」だと思います。