「この世界のあらゆる万象を神様の愛、父の愛を体恤して照らしてみるときは、すべて通じる」
新年にふさわしい、本質的な御言葉だと思います。
から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)
いつもそれについて考えなければならない
自分が願ったことを100パーセント完成させることは、とても難しいことです。
ですから、100パーセント完成できる人の姿勢がどうあるべきかということを知らなければなりません。どのような姿勢をもたなければならないのでしょうか? そのようにしようとすれば、いつもそれについて考えなければならないのであって、他のことを考えていてはいけません。勉強なら勉強に対して全力を尽くさなければなりません。全力を集中させ、そこにあらゆるものを投入しなければならないのです。
神様の息子、娘になる道
私たちの信仰の道というものは何ですか? 神様の息子、娘になる道です。神様の息子、娘にならなければなりません。神様の息子、娘の中でも、種類が多いのです。息子の中には養子もいて、親不孝者もいて、普通の人もいて、父母のために孝と誠を尽くす孝子もいて、さまざまな種類の息子がいるでしょう。このような観点から見るとき、真の息子、娘になるということは、とても難しいことです。
真の息子、娘になろうとすれば、真の父母に対して、二つの心ではなく一つの心になり、あらゆる精誠を集中して父母と一つになり得る道をとっていかなければなりません。
父母が願うその願いを自分の願いとして
ですから、どのようにしなければなりませんか? 父母が願うその願いを自分の願いとして引き継がなければなりません。言い換えれば、父母の願いが私の願いになり、私の願いが父母の願いにならなければならないのです。「願いは一つしかない」と言うことができなければなりません。
まず神の国と神の義とを求めなさい
神様の願いが何かということを、私たちははっきりと知らなければなりません。神様の願いが何ですか? 神様の願いの中には、私たちが食べて、寝てという、そのような日常生活とは関連がありません。それはだれもが皆することです。聖書にあるではないですか。「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ福音書6章31~33節)とそのように定義が下されているのです。
家庭を求め、氏族を求め、民族を求め、国家を求めて
それでは、どのようにしなければなりませんか? 個人が世界を求めていこうとすれば、国を捨て、民族を捨て、家庭を捨てて行くのではありません。個人が世界を求めていこうとすれば、家庭を求め、氏族を求め、民族を求め、国家を求めて逆さまに上がっていかなければなりません。このように行かなければならないということです。
父子関係
それでは、ここの核心は何ですか? 核心は父子関係です。家庭で言えば、父母を中心として子女が集まったところです。この家庭全体を中心として、この家庭自体が父母の立場に立ち、その周囲の家庭が一つになって子女の立場に立つとき、それが氏族になります。そのような観念を連結させなければなりません。
神様の心情的紐帯
神様の息子、娘になる方法は何かというとき、あらゆる分野で、神様の心情的紐帯を私が誘発させることができ、そこで心情的紐帯を結ぶことができ、統一させることができる、そのような自分にならなければならないことを、今分かったというのです。
神様の愛、父の愛を体恤して照らしてみる
ですから、自分が仕事をするとしても、その仕事自体が「一つは主体であり対象だ」という因縁を中心として、愛を中心として連結されていくと考えてみてください。勉強するのも、自分が貴いほど勉強が貴いのです。自分が文字を読むときも、「ああ、A、B、C、この文字はきょうはすべて愛らしい」、このように心が……。それは全体がそうでなければなりません。人に対しても、動物に対しても、万物世界に対しても、このような因縁が連結されるということです。
ですから、この世界のあらゆる万象を神様の愛、父の愛を体恤して照らしてみるときは、すべて通じるというのです。すべてが吸収されます。そこでは幸福圏が広がり、和動が広がり、統一圏が広がります。