キリスト教を再び勇敢に 再読「見捨てられた我らの父」から
から引用します。(翻訳・掲載・出版に感謝申し上げます。)
政府がその権限と権力を悪用する可能性がある
アメリカの建国者たちは、政府がその権限と権力を悪用する可能性があることを知っていたので、憲法補正第2条に破壊的な銃器を所有する権利を明記しました。トーマス・ジェファーソンは、1787年12月20日にジェームズ・マディソンに宛てた手紙の中で、民間銃器の目的は政府に対する牽制であると述べています。彼は書いています。「支配者が時々、国民が抵抗の精神を維持するために武器を取るという警告を受けなければ、どのような国が自由を維持することができるというのか。国民に武器を取らせなさい。」
必要に応じて使用できる武器を持つ
旧約聖書と新約聖書の神を拒絶し、エアブラシをかけた、女性化したイエスを受け入れている弱々しいキリスト教は、現代の攻撃的で過激な無神論には敵いません。そのような思想は、北朝鮮や中国のような共産主義国で何百万人ものキリスト教徒を拷問し迫害することにつながり、イスラム教徒が、平和的に礼拝している何千人ものキリスト教徒を殺害する攻撃を行うことは言うまでもありません。何万人もの信者が拷問されたり、虐殺されたりしているのを黙って見ていることは、愛の行為ではなく、臆病者の行為です。ネヘミヤの時代のように、クリスチャンは片手で活気ある信仰の共同体を再建し、もう片方の手では必要に応じて使用できる武器を持つように召されています。キリストの信奉者が再び勇敢になる時が来たのです。
これは、22章「キリスト教を再び勇敢に」の結びです。
しかし、この本のタイトルは「見捨てられた我らの父」です。
現代のキリスト教の危機に関する著作として、下記の文章の方が「結論」にふさわしいかも知れません。
キリスト教共同体全体が立ち上がり、信教の自由の権利が侵害されないように要求する準備ができていることを期待したいところですが、聖書に基づかない信念は、活動的なクリスチャンの間でさえも広まっています。
そして、「エピローグ」の結びは次です。
から引用します。
キリストが再び来ないという信念の中には、最初のキリスト教の異端を受け入れ、それによってかつて聖なるものであったものをすべて捨ててしまったすべての人々の唯一の希望が眠っています。
非情に控えめですが、意義深い「結論」です。
裏返せば、「再臨主」と「三代王権」によって、異端を打ち破り、キリスト教を再び勇敢にすることが可能であるということです。