群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)

私ども夫婦は、2015年8月30日に米国サンクチュアリ教会本部で行われた「真の御父様の聖和3周年記念礼拝」(蘇生期・真の基元節)および「真の御父様の権威に戻るための祝福式」に参加し、同日の夜、日本において「真の御父様の権威に戻るための祝福式」を行うための、任命の祝祷を受けました。
2015年12月30日にCyberサンクチュアリ人協会の会長を辞め、文鮮明真の御父母様・文亨進二代王様・文國進監察総監様の側近である江利川総会長の下で働くため、日本サンクチュアリ協会に移籍しました。

「救世主は男の子でないとなれないんだよ」

引き続き、様々な連想ができました。

から引用します。(~34頁)
(執筆・出版に感謝申し上げます。)


クリスチャン

「ダビデの子ョセフよ、心配しないでマリアを妻とし て迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」

この啓示的夢の指示を受けて、ヨセフはマリアと結婚するのであった。 

これが事実とするならば、彼はよほどの信仰者に違 いない。一度の夢で、誰の子をはらんでいるか分からない女と結婚するからである。これは、誰もができることではないだろう。よっぽどマリアを好きか、超人的な信仰の持ち主かのどちらかに違いない。


しかし、時が過ぎ、マリアのお腹が日を追うごとに大きくなると、ヨセフの気持ちにも変化が起きた。つまり、マリアのお腹の子を疑いだしだのだ。 あの子は いったい誰の子かと。そうなると、真意を確かめたく なるのが人の情というものであろう。

 そこで、ある日、ヨセフはマリアに尋ねた。

「 お腹の子の本当の父親は誰なのだ」 

するとマリアは答えて言った。

「この子は聖霊によって身ごもりました」 

まさに、ヨセフが啓示で告げられた通りだった。ところがこの時、 ヨセフは素直に受け入れ、信じることができなかった。いや、ヨセフだけではあるまい。きっと、ほとんどの人が信じることができないのではないだろうか。そんなことは、常識ではあり得ないことであり、過去に前例がないからである。

時が過ぎても、疑うことが無いとすれば、その信仰はすごい、と改めて思います。



韓氏オモニ

「でもねマリア、よくお聞き。救世主は男の子でないとなれないんだよ

それを聞いて、マリアは肩を落とした。自分が女だということをこの時ほど残念に思ったことはなかった。

「お婆さま。どうして男でなきゃダメなの! 女のどこがいけないの!」

これは主がお決めになった事なのよ


マリアは、どうすることもできない事情を、幼いながらも悟った。理屈や理論などではない。火が熱いように、氷が冷たいように、救世主は男なんだと。これは変えようのないものなのだと理解することができた。

年を取っても、理解できない人はいるものです。



父母伝道

御父って何だい! 僕らのお父さんとは違う御父がいるそうじゃないか。従兄弟のヤコブが心配して話し しくれたよ。丘の上で兄さんは悪霊と話しているかも知れないってね」

イエスは父を愛していない訳ではない。むしろ心から敬愛していた。丘の上での祈りの場では常に父ヨセフの幸せを願い、喜びが溢れるようにと祈っていた。 健康であるように、怪我をしないように、みんなから愛されるように、豊かであるように、そして、強い信仰が持てるようにと。しかし、悲しいかなイエスの愛の心情はヨセフには届かなかった。

「真の父母」という言葉でつまづかせ、自分の場合は、祈りも足りなかったことを悔い改めます。



左派

ムチ教師は毒蛇のようにしつこく、悪意の言葉をイ エスに投げつける。そのような責め方は律法聖書の中に記されているサタンがよく使う手だ。サタンが人を支配する手段の最たるは恐怖なのだ。そんな悪魔のような言葉に、他の生徒はみな縮みあがった。しか し、イエスだけは動じなかった。イエスはムチ教師の知恵が浅いことを知っていたし、本当は臆病者である 事も知っていた。それはイエスの純粋な心が感じ取っ ていたのである。そんなイエスをムチ教師は気にくわ なかった。自分に屈しないイエスに、彼はムキになって跪かせようとしていた。だからであろう、イエスの悪い評判は、何を隠そうこのムチ教師によって立てら れていた。彼は教師という地位を利用して子供達を操ったのだ。

すべて二代王様が語っていることです。



家庭連合

ユダヤ社会の中枢を担っている祭司や律法学者たちの多くは、権力と富にしがみつき、本来の責任を見失っていた。そのため、聖職者の信仰は形式にとらわれ、その裏側では賄賂が横行していた。すなわち、献金や多くの貢ぎ物を納める者への祈祷は長く、誉れの言葉も特別なものを与えたのである。 

×

非ログインユーザーとして返信する