から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)
一切の生活は、すべて1人でするのではなく、主体と共に、主体の目的のためにする
私がやらなければこのようになるということを感じなければなりません。そのようにしようとすれば、遠いところにいてはいけないのです。いつでも主体と対象の関係で接し、見て、聞いて、食べて、寝てという一切の生活は、すべて1人でするのではなく、主体と共に、主体の目的のためにする、ということを表面化させて感じなければなりません。
このようなことを感じるところで、天が共にあるところで新しい自覚をして世界に向かっていくとき、はじめてそこから天のみ旨が成し遂げられることを、皆さんが理解してくれることを願います。
(『文鮮明先生御言選集』 58-309~ 1972.6.25)
皆さんの思いでは通じないというのです。
それでは、これをどこから出発するのですか? 「私は絶対的な主体である天のためにいる。私の感情の一切、私の存在意識全体がそれによらなければ存在し得ない」という信念をもたなければなりません。「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ26・39)と祈られたイエス様も、その基準を中心として行かれた方ではないですか? 皆さんの思いでは通じないというのです。
世界のために生きるのが忠の道なのです。
今回、世界を歴訪しながらも同じです。めちゃくちゃになり、雑巾の切れ端のようになった世界の頂上を見つめながら、「お父様、この世界をどのようにしなければなりませんか?」と言うと、「知る者がやらなければならないのではないか」と言われるのです。
そのような立場で統一教会の思想から見るとき、国のために生きるのが忠の道か、世界のために生きるのが忠の道か、天を中心として見てみるとき、天は万国の大王でいらっしゃるのではないですか? ですから、世界のために生きるのが忠の道なのです。ですから、悲惨でかわいそうな大韓民国にいる統一教会の教会員たちを犠牲にさせてでも、世界を生かすために旗を掲げて進まなければならないのではないですか? それが先生の考えです。
ありとあらゆることをしなければならない
主体である天もその願いをもっており、私の願いも同じである以上、これを成就させるためには、国を解放させるためには、じっとしていてはいけないのです。
解放されるためには、ありとあらゆることをしなければならないというのです。命を捧げなければならないなら、命も捧げなければなりません。
先生のみ言を聞いて損をすることはない
そこに必要なお金は、神様が文先生のところにもってきてくださらなければならないというのが先生の信念です。
先生のみ言を聞いて損をすることはないということです。何の話か分かりますか?(「はい」)。