群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)

私ども夫婦は、2015年8月30日に米国サンクチュアリ教会本部で行われた「真の御父様の聖和3周年記念礼拝」(蘇生期・真の基元節)および「真の御父様の権威に戻るための祝福式」に参加し、同日の夜、日本において「真の御父様の権威に戻るための祝福式」を行うための、任命の祝祷を受けました。
2015年12月30日にCyberサンクチュアリ人協会の会長を辞め、文鮮明真の御父母様・文亨進二代王様・文國進監察総監様の側近である江利川総会長の下で働くため、日本サンクチュアリ協会に移籍しました。

「一切の生活は、すべて1人でするのではなく、主体と共に、主体の目的のためにする」


から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)


一切の生活は、すべて1人でするのではなく、主体と共に、主体の目的のためにする

私がやらなければこのようになるということを感じなければなりません。そのようにしようとすれば、遠いところにいてはいけないのです。いつでも主体と対象の関係で接し、見て、聞いて、食べて、寝てという一切の生活は、すべて1人でするのではなく、主体と共に、主体の目的のためにする、ということを表面化させて感じなければなりません。


 このようなことを感じるところで、天が共にあるところで新しい自覚をして世界に向かっていくとき、はじめてそこから天のみ旨が成し遂げられることを、皆さんが理解してくれることを願います。

(『文鮮明先生御言選集』 58-309~ 1972.6.25)


皆さんの思いでは通じないというのです。

 それでは、これをどこから出発するのですか? 「私は絶対的な主体である天のためにいる。私の感情の一切、私の存在意識全体がそれによらなければ存在し得ない」という信念をもたなければなりません。「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ26・39)と祈られたイエス様も、その基準を中心として行かれた方ではないですか? 皆さんの思いでは通じないというのです。


世界のために生きるのが忠の道なのです。

 今回、世界を歴訪しながらも同じです。めちゃくちゃになり、雑巾の切れ端のようになった世界の頂上を見つめながら、「お父様、この世界をどのようにしなければなりませんか?」と言うと、「知る者がやらなければならないのではないか」と言われるのです。


 そのような立場で統一教会の思想から見るとき、国のために生きるのが忠の道か、世界のために生きるのが忠の道か、天を中心として見てみるとき、天は万国の大王でいらっしゃるのではないですか? ですから、世界のために生きるのが忠の道なのです。ですから、悲惨でかわいそうな大韓民国にいる統一教会の教会員たちを犠牲にさせてでも、世界を生かすために旗を掲げて進まなければならないのではないですか? それが先生の考えです。


ありとあらゆることをしなければならない

主体である天もその願いをもっており、私の願いも同じである以上、これを成就させるためには、国を解放させるためには、じっとしていてはいけないのです。


 解放されるためには、ありとあらゆることをしなければならないというのです。命を捧げなければならないなら、命も捧げなければなりません。


先生のみ言を聞いて損をすることはない

そこに必要なお金は、神様が文先生のところにもってきてくださらなければならないというのが先生の信念です。

先生のみ言を聞いて損をすることはないということです。何の話か分かりますか?(「はい」)。

このような模範の御言葉が、たくさん必要な時だと思います。


から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)


ありとあらゆる労働をしながら趣味的に消化しようと生きた

 ダンベリーの獄衣の服を着て座った先生の身の上、そこにおいてありとあらゆる労働をしながら趣味的に消化しようと生きたそのようなことを皆さんの生活に比較して、そこで獄衣を着て生きる先生よりもよくなければならない。



から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)


その場を守るために一人で守った

ヒマラヤ山脈も、太平洋の深い所も私が経なければならない。一人で泳いで行かなければならないし一人で歩んで行かなければならない。

恥ずかしいことを忘れて神様を愛すると言える姿勢がなっているのかというのだ。恥ずかしさを忘れなければならない。そのように生きようとしその場を守るために一人で守った、誰も守る人がいなかった。だからいつも一人で寂しい。


風波がぶつかるそこでぶつかって

追い出して苦労をさせて風波がぶつかるそこでぶつかって‘私の胸が強いのか、あんたの胸が強いのか?体でぶつかることができる王子王女になればその世の中が正しく見えるのだ。体験しなければ自分の信仰が死んだ信仰だ。それを知らなければならない。

 霊界に行くようになればどれほど食べられずどれほど人によいことをしたのかというその差異に従って数十倍、数百倍が加担してそれが飛行機と同じであって一等席に満たして天国の王権を樹立するのに参観者になるのだ。それ以上の栄光がどこにある?


「いつも何か手を打ち、対策を講じておられました。」 - 群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)
から自分の言葉を引用します。

このような模範の御言葉が、たくさん必要な時だと思います。

「60が限界だ」

昨日の記事で引用した御言葉の一部を再掲します。

神の知恵と見識が必要です。


私たちには中央からの命令がありません。私たち一人一人が導きを持たなければなりません。

その際に、留意事項の一つは年齢です。


次の過去記事があります。

「神のみ旨の道に引退というものはありません。」 - 群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)

このブログは、「答」よりも「問」を書く傾向があると、自覚します。





から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)


40年だけなれば次元が異なる。

(福祉農土院を中心としたセマウル運動に対する金允相院長の報告)


 「・・・・・・このように韓国を誰も知らない中で1950年代から国民教育をされ、さらには1960年代に至っては産業教育としてセマウル運動として様々な側面からー今もっと多くのことをされるがーなされた真の父母様に熱い感謝の拍手を捧げてくださることを願います。』(拍手)


 感謝の拍手をした皆さんが熱誠でもってしなければならない。皆さんの友人たちもそのために、またその環境にも影響を及ぼし、どこに行こうと学校であれば学校に影響を及ぼし、大きな所に影響を及ぼさなければならないのだ。カインアベルの歴史でカインが先に生まれた兄になってこれを破壊することでなく育成しなければならないのだ。育成しようとすれば怨讐視してはならないのだ。奪うとか略奪してはならないというのだ。為に与えなければならないのだ。


 為にするのは10年、20年、30年、40年だけなれば歴史の流れは必ず摂理史もそうだし次元が異なる。40年!人も40年は精誠を込めれば世の中が異なるのだ。数十年もってしてはだめだ。東西南北10年づつして40年以上にならなければならない。50数は中央数に入るのだ。歴史がそうだ。


 そのために摂理史は40数を中心に摂理して行くのだ。


60が限界だ

峠を越えるのだ。60歳が超えるのだ。


 さ、そうなのでその時まで男や女や自分の意見をもって中心の場に立つことができなければその人は流れて行ってしまう。てっぺんに上がることができないのだ。56歳まで自分が成功できる目標に到達できなければそれは降りて行くのだ。行けば行くほど降りて行く、上がって行くことができない。しかし56歳に上がって行き始めて天が協力すれば上がって行くのだ。


 56歳は60歳を中心に3年期間だ。

誰々の限界線、忍耐をするとか、あるいは開拓をするとか全部すべて限界があるが、60が限界だと言ったのは正しくとらえたのだ。


息子娘を育てることを知らなければならない。

 だから精誠を捧げる父母があれば自分が現在どの立場かを知って上がって行く場がどうか?誰が上がって行かなければならないのかと言えば、息子娘を育てることを知らなければならない。