から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)
知識だけを持っていたら、それは私たちを傲慢にさせてしまいます。
そう、もし私たちが神学的なことや哲学的なこと、高尚なことについての知識だけを持っていたら、知識だけを持っていたら、それは私たちを傲慢にさせてしまいます。そうですね、クラウス・シュワブを見てください。グローバリストを見てください。現代の「無神論科学者」と呼ばれる人たちでさえも、知識で自分を誇り、傲慢になっています。科学を通して真理を追求し、客観性を求めているので、何でも知っていると思い込んでいるのです。
次の過去記事があります。
「知能が高いといって、神様がご覧になるとき価値のある人間ではありません。」 - 群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)
ですから、「御父様の種」という一言が必要です。
から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)
私が笑う次に笑わなければ。どこに侍って行ったとすれば先に笑えばそのような失礼がどこにある?
そうして本を取り出しててっぺんに‘新孔子’と書いたのだ。何故笑う?気分が悪くて笑う、気分が良くて笑う?「気分が良くて笑います。」あんただけよいのか?私がもっとよいのだが、私が笑う次に笑わなければ。どこに侍って行ったとすれば先に笑えばそのような失礼がどこにある?口を開けて‘あは!’とこうしていて、私は笑う話もしなかったのに。
私は早く笑う傾向があるので、自分への戒めです。
そのまま合わない。
自分たちの理想相対がすべて合うのではない。一番初めに合えばだめだ。下上がどのように合う?下弦・上弦がどのように合う?ひっくり返れば合う。そうじゃないか?ひっくり返れば合う、そのまま合わない。
そのために始めに好むようになれば後では嫌な時が来る。山が高かったとすればいつも深い谷間が生じる。その次に上がって行けてもっと高ければもっと深い谷間、もっと高ければもっと深い所が生じる。
次の過去記事があります。
男女二人が合わさってこのように和合しなければならない。
男女二人が合わさってこのように和合しなければならない。これが共鳴になればなるのだ。これがだめであればこうだ。これがぴたりと入って合えばテンとどこに行っても、遠く行ってもそれが破音にならない。そこに入って寝たいし、そこに入って遊びたいのだ。
やはり「御父様の種」です。