「ある時は数千数万の人の中で天が愛する人が誰かがわかります。」
から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)
ある時は数千数万の人の中で天が愛する人が誰かがわかります。
いつも考えなければならない。どのように群れとして私に照らしてくれるのかと言うのだ。先生はそれが早いです。パッと見れば、すでにわかる。ある時は数千数万の人の中で天が愛する人が誰かがわかります。このようにさっと見る時そのような人が私の目にぴたりと見えます。核が行って急に止まる。その光が異なります。光の色が異なるのです。光彩がある、光彩。
そこでその人に対して一言をしたが、その人が感動されて涙を流せば全体が泣きます。衝撃を受ければ、全体が衝撃を受ける。
自分が昔慕った人に会ったつもりです。
先生はその為に聴衆を見て夜通し話しても疲れません。東西南北から見て10人あるいは百人のその人たちと話すと言うことであり、そこにありとあらゆる人たちがすべています。わが近所にいた人たちにすべて似たのです。目も似たし、鼻も似たし、口も似たし、姿も似ました。
近所の人たちに対して夜を明かしたその心情がそこにあるのでどうなのか?それを近所の人たち以上に近く見えます。80になった老人たち、重患者になって久しくなくて死ぬ人と座って話すようになれば重患者に見えません。自分が昔慕った人に会ったつもりです。それがどれほど嬉しいのかと言うのです。
情が多いのでどこに行こうとその人(先生)がいるようになればびっしりと満ちます。
そのような心情を体験することによって情が多いのでどこに行こうとその人(先生)がいるようになればびっしりと満ちます。その一人だけおれば、部屋がいっぱいに満ちるのです。世の中がいくら広くてもそれと共に私が一つになって好めばそれだけです。世の中にそのヤンバン(両班)が一番良いのです。おじいさんであれ誰であれ、隣の人であれ友人であれすべて捨ててもその人に対したいのです。だから自分が誰を訪ねて行くのかと言えばその人を訪ねて行きます。