「カイン・アベル」の定義は、入教の前後で変わる
から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)
それを編集する時に間違ったようなのだ。
(『天聖経』 ‘礼節と儀式’ 編 ‘第3章 礼拝と教会生活の礼節 9)食口間の法度と礼節 ②食口間にカインアベルの関係がある’から訓読)
『わが統一教会の教徒たちを中心に見る時カインアベルが誰かと言えば、横的に先に入って来た人がアベルであり、縦的に新たに入って来た人が・・・』
何反対か?「‘横的に先に入って来た人がカインであり縦的に新たに入って来た人がアベルです。’ですか?」横的に後で入って来た人が何か?いつカインアベルか?「横的に先に入って来た人がアベルであって。」先に入ってきた人たちが何故アベルか?カインだ。長くなった人がカインだ。とすればアダムがアベルであり神様がアベルに?神様が復帰摂理をしなくてもよいという、必要ないというのか?カインだ。兄弟たちどうしも先に入って来た人がカインであり、縦的でも同様だ。縦的に別に横的に別に考えればだめなのだ。それをそのようにすればだめだ。もう一度読んでみなさい。それを明らかにしておきなさい。
『横的に先に入って来た人がカインであり、縦的に新たに入って来た人がアベルです。縦横の関係を置いて見ると横が縦を重要視しなければならないし、縦が横を重要視するのではありません。』
(中略)
横的も先に入って来たのがカインであり、縦的も先に入って来たのがカインだ。それではアダムがアベルか?イエスがアベルか?再臨主がすべてアベルだ。それをそのようにわかるのか?それを編集する時に間違ったようなのだ。それでは大きな混乱が繰り広げられる。
しかし、その後も、訂正されなかったようです。
「先に入って来た人」は、「心情的」「教える」が問題でなく、「育てる」「侍る」「もてなす」立場なので、「カイン」である
「その間伝統的に教会に先に入って来た人がアベルであり後に入って来た人がカインであって・・・。」いいや、いいや!育ててあげなければならないのだ、先に入って来た人が。もてなしされれば駄目だ。育ててあげてもてなしを受けなければならない。与えてからもてなしを受けなければならない。だから日本がそのように反対をした。
そのためにカインが、先に入って来た人がもてなしを受けたいと言ったのだ。育ててあげなければともに大きくなってもてなしを受けてすべてしなければ。そのために日本教会が全部支障をもたらした。先に入って来た人がアベルだと言って・・・。
「復帰の世界では心情的にはアベルであり・・・。」そうだ。育ててあげなければならないのだ。
「アボニム、横的に見る時にはそうですが縦的に見る時には心情世界で先に入って来た人が原理を知って天の心情圏を知るためにこれから入って来た人を教えるという立場ではそれが少し異なるのではないですか?」
我が教会が今そのように大きな弊害だ。‘私が先に入って来たアベルなのであんたたちは私に侍りなさい。’と言うのだ。
「父母」「兄」「先に入って来た人」は、「伝道」「実績」を通して、「育てる」「与える」「食べさせる」立場である
教会が反対になる行脚なので先に入って来たともてなしを受けると育てることもせず・・・。父母を代身しなければならない。
神様がアダムエバを育ててあげなければならないし、アダムエバが神様を育ててあげるのか?根本がそうか?そのためにこれらが伝道もせず私が先に入って来たので侍られると考えるのだ。
先生が今までその原則を横的にも縦的な立場で育ててあげなければならない。与えずに受けて食べるというのは盗人だ。横的にも同様だ。そう、伝道をしなかったのだ
元来は入って来て実績のない人たちはいくら縦的だとしても取ってしまわなければならないのだ。
兄がどのようにアベルになる?「兄は先に、教会に先に・・・。」先に入って来たとすれば弟たちをお母さんお父さんの代わりに育ててあげる責任を誰がする?そのような考えをするために伝道もせずいつでも取って食べてしまった。
御父様と幹部が議論するような難しい問題です。
原理講論とも、従来の私達の理解とも、違うようです。
私は、下記の通り理解しました。
「カイン・アベル」の定義は、入教の前後で変わる
先に入ってきた人たちがこのようにしたために後で入ってきた人たちに功績もなく‘私が先に入って来たのであんたたちがカインの立場で尊敬しなさい。’と言ったのだ。それは入って来ない時の立場であって、入って来るようになれば兄弟の立場であるが後で生まれた人がそうなので父母の代わりに育ててあげなければならないのではないのか?