「1年365日を勝利の日としてつくりながら感謝する生活をする」~「無駄にしても余る神様の愛」
から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)
(『天聖經』 ‘礼節と儀式’ 編 第2章 真の父母に対する侍る礼法 1)真の父母様は祝福家庭の中心 ①真の父母様の息子娘になろうとすれば’から訓読)
『・・・・・・また夕方であれば全ての全体を集約させて一つの決心をアボジの前に捧げることができる秋の季節のようなときであるために祭物(供え物)になりうる場に立つと言って、
冬の季節に該当する夜であれば生命力を備えて神様と内在的な父子の起源を結んですべての価値を受け容れることができる自身になるとしなければなりません。
そのように1年365日を勝利の日としてつくりながら感謝する生活をする人であれば
その人はアボジと関係を結んで生きる生活がやりがいのある生活だと言うことを感じることができるでしよう。(29-340,1970.3.14)
皆さんが時間が行くのも知らずにいるのは神様の愛に酔っているためです。』
「勝利」の反対は、「失敗」です。
「失敗するようになれば‘私はもっと大きなもののためにする。’と言わなければならない。」~「白帯」 - 群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)
から引用します。
「失敗」でなく「失敗が嫌いなこと」=「後悔」=「自己崇拝」が私の悪癖である。
そして、新しい自己像は「白帯」です。
「失敗」の原因は「軽率」です。
「軽率」の理由は「白帯」です。
「白帯」の価値は「体験」です。
「失敗」は過去の「後悔」と未来の「心配」の原因です。
「後悔」と「心配」は、「訓読」と「祈祷」、すなわち「神様との関係」の動機です。
「失敗」を正当化する努力でした。
しかし、それを超えて「感謝」、そして「神様の愛に酔う」ところまで行くのが理想です。
無駄にしても余る神様の愛
「失敗が嫌いなこと」=「後悔」の理由は、「自己崇拝」だけでなく、「神様の愛を無駄にする喪失感」だと気づきました。
(両方とも、「愛の減少感」を生みます。)
ですから、自分の「失敗」ぐらいでは無くならない「神様の愛」(少なくとも内的な心情、もしかすると外的な恵みも)を、信じることにしました。
それが「神様の勝利」に含まれていると信じます。
「すべては導かれている」? 「神様は負けていません」「自分の勝敗は考えない」 - 群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)