「60が限界だ」
昨日の記事で引用した御言葉の一部を再掲します。
神の知恵と見識が必要です。
私たちには中央からの命令がありません。私たち一人一人が導きを持たなければなりません。
その際に、留意事項の一つは年齢です。
次の過去記事があります。
このブログは、「答」よりも「問」を書く傾向があると、自覚します。
から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)
40年だけなれば次元が異なる。
(福祉農土院を中心としたセマウル運動に対する金允相院長の報告)
「・・・・・・このように韓国を誰も知らない中で1950年代から国民教育をされ、さらには1960年代に至っては産業教育としてセマウル運動として様々な側面からー今もっと多くのことをされるがーなされた真の父母様に熱い感謝の拍手を捧げてくださることを願います。』(拍手)
感謝の拍手をした皆さんが熱誠でもってしなければならない。皆さんの友人たちもそのために、またその環境にも影響を及ぼし、どこに行こうと学校であれば学校に影響を及ぼし、大きな所に影響を及ぼさなければならないのだ。カインアベルの歴史でカインが先に生まれた兄になってこれを破壊することでなく育成しなければならないのだ。育成しようとすれば怨讐視してはならないのだ。奪うとか略奪してはならないというのだ。為に与えなければならないのだ。
為にするのは10年、20年、30年、40年だけなれば歴史の流れは必ず摂理史もそうだし次元が異なる。40年!人も40年は精誠を込めれば世の中が異なるのだ。数十年もってしてはだめだ。東西南北10年づつして40年以上にならなければならない。50数は中央数に入るのだ。歴史がそうだ。
そのために摂理史は40数を中心に摂理して行くのだ。
60が限界だ
峠を越えるのだ。60歳が超えるのだ。
さ、そうなのでその時まで男や女や自分の意見をもって中心の場に立つことができなければその人は流れて行ってしまう。てっぺんに上がることができないのだ。56歳まで自分が成功できる目標に到達できなければそれは降りて行くのだ。行けば行くほど降りて行く、上がって行くことができない。しかし56歳に上がって行き始めて天が協力すれば上がって行くのだ。
56歳は60歳を中心に3年期間だ。
誰々の限界線、忍耐をするとか、あるいは開拓をするとか全部すべて限界があるが、60が限界だと言ったのは正しくとらえたのだ。
息子娘を育てることを知らなければならない。
だから精誠を捧げる父母があれば自分が現在どの立場かを知って上がって行く場がどうか?誰が上がって行かなければならないのかと言えば、息子娘を育てることを知らなければならない。