御父様の「六マリア」を思い出したりもしました。
から引用します。(~65頁)
(執筆・出版に感謝申し上げます。)
1.何一つ不平不満を言うでもない。
マリアの言う通りだった。イエスは祈りの時間以外はヨセフの仕事を真面目に手伝っていた。しかも、イエスが野山を歩き回る時間は早朝だ。仕事のことを言えば、イエスは何一つ不平不満を言うでもない。理不尽な事を言いつけられても、彼は文句一つ吐き捨てたりせず、「はいっ」と言って、言われた通りにした。 また、やみくもに叱られても、彼は父を責めたりせず逆に、許し、忘れようと努めてきた。さらに、それを越えて愛そうと懸命だったのだ。
下記で紹介された御言葉を思い出しました。
(共有に感謝申し上げます。)
何事をなすにもそういう蕩減だと思って真剣にやる。その仕事の中に自分が蕩減を越えるかもわからないんだから、すべては真剣にやる。人が見ようとも見なくてもそれは関係ない。
2.「お前、嘘をついているな」
「知らなかったのです。許してください」 と、イエスは腰を深くおって頭を下げた。 そんなイエスの姿を見て、ヨセフは直感した。
「お前、嘘をついているな」
その言葉に、イエスの動きが止まった。頭を上げ ことができない。今、父と目と目を合わせたら嘘をつき通す自信がなかった。
下記の御言葉を思い出しました。
(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)
ダビデ王は病気になって、心が大変重く今や罪について考えるようになった。罪の苦痛。人々は罪について考えた時「私に何の罪があるんだ。ヒットラーみたいに人を殺したわけでもなく、何か犯罪人のように、家を燃やして子供を殺して暴行したわけでもない。罪はない。」とこのように考えるではないか。人間が罪について考えるとき、人間は他の人間と比較するということだ。
しかし、それは間違った比較だ。
神様の十戒が出てくるとき、神様は人間と人間を比較するのではなく人間を神様の完璧性と比較している。
十戒の9番目は、「偽証」「嘘」です。
上記イエス様の「嘘」は、物語の中の話です。
しかし、御父様の「六マリア」を思い出したりもしました。
しかし私は、深入りせずに終わります。