「熱い信仰、熱い行い」の「侍義時代」
から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)
旧約的行義と新約的信義
一般のキリスト教では、「行いは宗教的内容だ」「パリサイ人のものである」と言います。そうしながら、信仰だけが、信仰によって、信仰が重要である。確かに重要です。信仰を捨ててはいけません。
私達の教会(統一教会)の問題は信仰を捨てたのです。行いだけが中心となり、信仰をだんだん捨てたのです。そうでしょう?オンマ。
それもだめです。それも極端的な反対の問題です。信仰と行動。信仰と行い。自由と責任。自由と責任。自由がそれだけであるのではなく、責任がそれだけであるのではなく、自由と責任。信仰と行い。そうでしょう?過度に「行い」だけに行けば、パリサイ人になり、過度に「信仰」だけに行けば、異端になってしまいます。
ですから何ですか。私達の原理でも修行とは呼びませんが、何と呼びますか。条件と呼びますね、条件。蕩減摂理に条件を立てなければならない、という内容が出てくるではないですか、原理に。ですが、プロテスタント教徒がそれを見る時に「あー、お前達はただ行いで救いを受けると考えている。」とこのようにいつも迫害しました、プロテスタント教徒たちは。
我々の教会(統一教会)はとても行いだけの方向に行ってしまったから、それが、とても宗教的になってしまったのです。そして、詐欺野郎共がお父様を利用しようとしたから。あいつ等も行いでお互い競争したのです。ところが、それは信仰を徐々に弱くしてしまったのです。
成約的侍義
極端に片方に偏ってしまってはいけません。熱い信仰もあれば、熱い行いもなければなりません。冷めた信仰、熱い行い。それも違います。熱い信仰、冷めた行い。それも違うのです。熱い信仰、熱い行い。そうでしょう?え? そのように考えれば理解出来るでしょう。 二つともなければなりません。自由と責任。熱い信仰、熱い行い。
関連記事
まとめ
「侍義時代」は、「詐欺野郎」の「奴隷」にならず、「王」に正しく侍ることによって、「熱い信仰、熱い行い」をする時代だと思います。
****
おすすめ:
(お問い合わせ先:メール sanctuary.saitama@gmail.com
電話番号 堀勇一070-6670-5334 堀久子070-6637-7424 )
「キリスト教」のブログは、こちら
任命式の映像はこちら