「エホバの証人」の統一教会批判と、「聖霊の役事」
1.メシヤの使命について
同教会は聖書に記されているのと同じ「良いたより」を教えているでしょうか。
イエスは完全な子供を育てて,徐々に世界を手中に収めることについては一言も話されませんでした。文鮮明はこの点を受け入れているでしょうか。
最初のアダムに与えられた「三大祝福」は、イエス様が「言うまでもないこと」だったのではないでしょうか?
2.預言の両面について
文鮮明はこう述べています。「私も……そのような預言を知っています。我々は聖書の預言には,二つの側面があることを知らねばなりません。一方はイエスの受難と死を預言しています。もう一方は,たとえばイザヤ書 9章,11章,60章のように,人々がイエスを神の子として,王の王として受け入れた場合の栄光の統治を預言しています。……神は人間がメシアを送る摂理にどのように反応するかわからなかったので,しかたなく相反する二つの結果を預言せざるを得ませんでした。二つの預言は人間の行為によってどちらともなり得たのでした」。
これは一体どういうことでしょうか。人間がメシアに対してどのように反応するか全能の神には予知できなかったのでしょうか。
最初のアダムの堕落を予知できなかった神様ではないでしょうか?
3.復帰摂理について
統一教会は,「蕩減復帰」と呼ばれる複雑な贖いの教理を展開しています。「堕落によって創造本然の位置と状態から離れるようになってしまった人間が,再びその本然の位置と状態を復帰しようとすれば,必ずそこに,その必要を埋めるに足る或る条件を立てなければならない」と,「原理講論」は述べています。(下線は本誌)
人間は自分の罪を自分で贖わなければならないという思想は,統一教会の発祥の地となった東洋ではごく普通に見られます。しかし,これは聖書と調和するでしょうか。使徒パウロは次のように書きました。「すべての者は罪をおかしたので神の栄光に達しないからであり,彼らがキリスト・イエスの払った贖いによる釈放を通し,神の過分のご親切によって義と宣せられるのは,無償の賜物としてなのです。わたしたちは,人は律法の業とは別に,信仰によって義と宣せられる,とみなすからです」。(ローマ 3:23,24,28)
「メシヤを迎えるための基台」と、「キリストによる贖罪」を混同しています。
4.善神の業について
「原理講論」はこう答えています。「その霊人達は地上人達に火を受けさせたり,病気を治させるなど,いろいろの能力を顕わさせるのである。それだけでなく,入神状態に入って,霊界の事実を見せたり,聞かせたり,或いは,啓示と黙示によって預言をさせ,その心霊に感銘を与えるなど,いろいろの方面にわたる聖霊の代理をすることによって,地上人がみ旨をなしとげていくよう協助するのである」。
「預言の賜物があっても,それは廃され,異言があっても,それはや(む)」と聖書は述べています。(コリント第一 13:8)奇跡的な霊の賜物は,使徒たちおよび使徒たちに手を置かれてそのような賜物を受けた人々の死をもってやみました。
「霊人達」と「聖霊」(キリストが下さる霊の賜物)を混同しています。
しかも、「ペンテコステ派」の「役事」(聖霊はやんでいないこと)を知らないのでしょうか?
(そして、霊人達の役事もやんでいません。)
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