群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)

私ども夫婦は、2015年8月30日に米国サンクチュアリ教会本部で行われた「真の御父様の聖和3周年記念礼拝」(蘇生期・真の基元節)および「真の御父様の権威に戻るための祝福式」に参加し、同日の夜、日本において「真の御父様の権威に戻るための祝福式」を行うための、任命の祝祷を受けました。
2015年12月30日にCyberサンクチュアリ人協会の会長を辞め、文鮮明真の御父母様・文亨進二代王様・文國進監察総監様の側近である江利川総会長の下で働くため、日本サンクチュアリ協会に移籍しました。

「神様を中心とした利他的な祈祷」

真のお父様に帰ろう!サンクチュアリ教会『三代王権天一聖殿』: ’22年12月21日テネシー韓国語水曜礼拝 <4>祈りの原則4、祈りの原則5◆文亨進二代王

から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)


(祈りの五つの原則 ①歴史的祈り、②神学的祈り、③霊的祈り、④肉的祈り、⑤倫理的祈り)

①と②の過去記事は次です。

「嘘をつかない神様。 誠実な神様。 愛の神様。 知恵の神様。 正義の神様。」 - 群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)

③の過去記事は次です。

「未来に対して私たちは神様と共に出て行く。」 - 群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)


あなたの願うこと、実行させてください。私をその一部分に同参させてくださいますように。

次に、4番目は何だ、肉的部分は何ですか?訊くこと! 求めること! しかし求める時に、自分の願うことは尋ねません。神様の王国、神様の義、あなたの願うこと、実行させてください。私をその一部分に同参させてくださいますように。導かれますように、そうでしょ? 

求めること! これは自分を中心として求めるのではなく、神様を中心として求めること。


この事業があなたのみ心と栄光のために成功させていただけますように。

「この事業があなたのみ心と栄光のために成功させていただけますように。」

国進監査院長様は常にそのように祈祷されます、事業のために。

自分の事業がずっとお金をたくさん儲けて、お父様の仕事と三代王権の仕事を支持することができる後押しができるように。そんな祈祷をしながらされるのです。求めて行かれるではないですか。だから肉的に求めること。


私が嫌いな人がいれば、その人を赦さなければいけない。私を傷つけても赦さなければいけない。

その次に倫理的な部分、赦し。赦さなければいけない。

私が嫌いな人がいれば、その人を赦さなければいけない。私を傷つけても赦さなければいけない。

なぜ?神様に求めただろう。何故なら神様に疑わずに信じると約束したでしょう。それから神様が歴史的に何をされたか記憶したではないですか。

それから神様の性稟に対して神学的にも記憶したではないですか。

その次に神様が、今からは倫理的に行動しなければならない。お前が今戦う人を赦せ。


そいつらが地獄に行かない様に、そいつらを反対し、真理を話す

赦しは憎しみを持って暮らしてはいけない。だから悪と戦うが、悪と戦う理由は何だ?愛故にだ。そうでしょう?

悪なる奴と戦う理由は愛ではないですか。そいつらが地獄に行かない様に、そいつらを反対し、真理を話すではないか。


悪が勝てない様に、そしてその悪に属する多くの無知な人々が出て来れる様に、悔い改める事が出来る様に。

真理で私たちはあいつらと戦うが、あいつらを恨みながら戦うのではなく、憎くて戦うのではなく、悪が勝てない様に、そしてその悪に属する多くの無知な人々が出て来れる様に、悔い改める事が出来る様に。


神様を中心とした利他的な祈祷

そういう部分で祈祷の訓練をする様になれば、私たちの祈祷が完全に変わります。

完全に神様を中心にする様になる。完全に祈祷が変わります。


その様な基盤に、その様な習慣で利他的に、神様を中心とした利他的な、神様の為の集中的な祈祷の訓練をする様になれば、私たちの思考方式と人が変わります。目的も変わります。未来を見る思考も変わります。


恐れに留まらず、信仰と力と自信を持って出て行く

恐れに留まらず、信仰と力と自信を持って出て行くことの出来る、その様な天一国の民、宗族的王と王妃

「このみ言葉があの国に行って審判のみ言葉、法的な条件で現れる」

天地調和に拍子を合わせて生きなさい(5) : 文鮮明先生말씀選集

から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)


自分が宣告される判事の宣言があるその瞬間にどれほど深刻か?

 皆さん、このみ言葉があの国に行って審判のみ言葉、法的な条件で現れるものを考えるのだ。公判廷、裁判場に出る時に自分が宣告される判事の宣言があるその瞬間にどれほど深刻か?深刻です。そのようなことがわかるか?


自由がない。ぶつかる。思い通りできない。

皆さんが今自然の刑務所で生きる、罪を犯して。これが自然刑務所だ。幸せか?苦海と言ったのだ、苦海、事実なのだ。自然刑務所、自然の刑法に包囲されている。監獄に住むのと同様だ。自由がない。ぶつかる。思い通りできない。これがいつ終わるのかと言うのだ。自然刑務所と同じで、人間が作った刑務所と同じであり、人間が作った刑場で死刑にされるこのすべてのものを誰がつくったのか?それが問題なのだ。そのような所で深刻に考えなければならない。


皆さんが地獄に行って死ぬ死地に行ってもそれをすべて分ける案内文だ。案内書だ。

 ここでそのように苦痛の中で生きている人たちを解決できるのか?解放の道が何かと言うのだ。だからこれをすべて解放しなければならない。これがすべて解放の案内書であり、案内文だ。皆さんが地獄に行って死ぬ死地に行ってもそれをすべて分ける案内文だ。案内書だ。刑務所に入って住む人たち、20年の長期刑を受けて生きる人たちは自分が解放されうる道があれば何であれします。何であれするが深刻だ。深刻なのだ。


神様の前に罪を犯して許されうるそれの度数を越えることができる深刻性がない。

 今日神様の前に罪を犯して許されうるそれの度数を越えることができる深刻性がない。その下だ。それを越えて度数を越えることができるように深刻になって神様にまで私が同情を受けに行って神様が私にお願いすればどのようにするのかと言うのだ。そのような神様を私が発見した。ここに夢のような話が多く出てくる。それを夢と考えてはならないのだ。


次の過去記事があります。

「自分の一族の前に、近所の前にそのみ言葉を持って訓読会をしなければならない。」 - 群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)

「カイン・アベル」の定義は、入教の前後で変わる

蕩減復帰の原則とアベルになる訓練(1) : 文鮮明先生말씀選集

から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)


それを編集する時に間違ったようなのだ。

 (『天聖経』 ‘礼節と儀式’ 編 ‘第3章 礼拝と教会生活の礼節 9)食口間の法度と礼節 ②食口間にカインアベルの関係がある’から訓読)


 『わが統一教会の教徒たちを中心に見る時カインアベルが誰かと言えば、横的に先に入って来た人がアベルであり、縦的に新たに入って来た人が・・・』


 何反対か?「‘横的に先に入って来た人がカインであり縦的に新たに入って来た人がアベルです。’ですか?」横的に後で入って来た人が何か?いつカインアベルか?「横的に先に入って来た人がアベルであって。」先に入ってきた人たちが何故アベルか?カインだ。長くなった人がカインだ。とすればアダムがアベルであり神様がアベルに?神様が復帰摂理をしなくてもよいという、必要ないというのか?カインだ。兄弟たちどうしも先に入って来た人がカインであり、縦的でも同様だ。縦的に別に横的に別に考えればだめなのだ。それをそのようにすればだめだ。もう一度読んでみなさい。それを明らかにしておきなさい。


 『横的に先に入って来た人がカインであり、縦的に新たに入って来た人がアベルです。縦横の関係を置いて見ると横が縦を重要視しなければならないし、縦が横を重要視するのではありません。』


(中略)


 横的も先に入って来たのがカインであり、縦的も先に入って来たのがカインだ。それではアダムがアベルか?イエスがアベルか?再臨主がすべてアベルだ。それをそのようにわかるのか?それを編集する時に間違ったようなのだ。それでは大きな混乱が繰り広げられる。

しかし、その後も、訂正されなかったようです。


「先に入って来た人」は、「心情的」「教える」が問題でなく、「育てる」「侍る」「もてなす」立場なので、「カイン」である

「その間伝統的に教会に先に入って来た人がアベルであり後に入って来た人がカインであって・・・。」いいや、いいや!育ててあげなければならないのだ、先に入って来た人が。もてなしされれば駄目だ。育ててあげてもてなしを受けなければならない。与えてからもてなしを受けなければならない。だから日本がそのように反対をした。

そのためにカインが、先に入って来た人がもてなしを受けたいと言ったのだ。育ててあげなければともに大きくなってもてなしを受けてすべてしなければ。そのために日本教会が全部支障をもたらした。先に入って来た人がアベルだと言って・・・。


 「復帰の世界では心情的にはアベルであり・・・。」そうだ。育ててあげなければならないのだ。

「アボニム、横的に見る時にはそうですが縦的に見る時には心情世界で先に入って来た人が原理を知って天の心情圏を知るためにこれから入って来た人を教えるという立場ではそれが少し異なるのではないですか?」

 我が教会が今そのように大きな弊害だ。‘私が先に入って来たアベルなのであんたたちは私に侍りなさい。’と言うのだ。


「父母」「兄」「先に入って来た人」は、「伝道」「実績」を通して、「育てる」「与える」「食べさせる」立場である

教会が反対になる行脚なので先に入って来たともてなしを受けると育てることもせず・・・。父母を代身しなければならない。

神様がアダムエバを育ててあげなければならないし、アダムエバが神様を育ててあげるのか?根本がそうか?そのためにこれらが伝道もせず私が先に入って来たので侍られると考えるのだ。

 先生が今までその原則を横的にも縦的な立場で育ててあげなければならない。与えずに受けて食べるというのは盗人だ。横的にも同様だ。そう、伝道をしなかったのだ

元来は入って来て実績のない人たちはいくら縦的だとしても取ってしまわなければならないのだ。

兄がどのようにアベルになる?兄は先に、教会に先に・・・。」先に入って来たとすれば弟たちをお母さんお父さんの代わりに育ててあげる責任を誰がする?そのような考えをするために伝道もせずいつでも取って食べてしまった。


御父様幹部が議論するような難しい問題です。
原理講論とも、従来の私達の理解とも、違うようです。
私は、下記の通り理解しました。


「カイン・アベル」の定義は、入教の前後で変わる

先に入ってきた人たちがこのようにしたために後で入ってきた人たちに功績もなく‘私が先に入って来たのであんたたちがカインの立場で尊敬しなさい。’と言ったのだ。それは入って来ない時の立場であって、入って来るようになれば兄弟の立場であるが後で生まれた人がそうなので父母の代わりに育ててあげなければならないのではないのか?