「怨讐を愛する」ための考え方
6月17日のの当ブログ「カイン・アベルについて 原理本体論から」では、原理本体論から次の記述を引用しています。
怨讐さえも愛する気持ちをカインに教えてあげるのがアベルの責任なのです。
難しい内容が、当たり前のように語られていて、実は私は驚きました。
人に教えるからには、当然、自分ができることでなければなりません。
ところが、「怨讐さえも愛する」のは、簡単なことではありません。
6月6日の当ブログ「亨進様の瞑想法を思い出す」では、亨進様説教から次のみ言葉を引用しました。
私たちの敵、障害物に対しても感謝を捧げることができます。
(中略)
なぜなら、そのような反対がある時、一層努力するようになり、その人々までも変えるために、より良い結果をもたらすことができるので、ある面ではその人々に感謝し、本当に困難な内容に感謝しなければならない
「より良い結果をもたらした」後では可能ですが、その前に、「戦っている最中に」感謝するのは大変だと思います。
ところが、最近、良い聖句を再認識しました。
私はプロテスタント教会に通いながら、牧師に勧められて、聖書も訓読するようになりましたが、そのお陰です。
マタイによる福音書5章46節と48節です。
あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。
そのようなことは取税人でもするではないか。
(中略)
それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
「怨讐を愛する」ことには、「報い」があります。
それは「完全な者」「天の父に似た者」になれるということです。
それは最高の「報い」です。
しかし、「自分を愛する者」あるいは「自分の好みに合う者」だけに囲まれていたら、絶対受けられない「報い」です。
そう考えたら、「自分を憎む者」「自分の好みに合わない者」が現れることは絶好のチャンスです。
それは人に限らず、応用できます。
「自分に不都合な出来事」「自分が不愉快な出来事」が起きることもチャンスです。
そう考えたら、何が起きても、人生はバラ色です。
このような教えで、カインが納得してくれるかどうか、まだ分かりません。
その前に、自分が本当に「怨讐を愛する」ことができるかどうか、まだ分かりません。
現時点では、まだ「考え方」です。
これから実験して行きたいと思います。
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