御父様の祈祷と、御母様と私達
から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)
アボニムは泣かれながらお祈りされました。のぞが詰まってずっと休んでまた継続して祈られたが、骨肉からにじみ出る心情に徹した祈りでした。「神様のみ旨を私がなしてさし上げるために今までこの道を歩んで来ましたが、神様が私よりも苦労をもっと多くされたことを知っておられます。
神様のみ旨を私がなしてさし上げます。
神様のその多くの残された恨を私が必ず解いて差し上げます。
この地上に神様の国と世界を私が探して立ててあげます。
そこで神様を安息してあげ喜ぶようにしてあげる私自身に必ずなりますので
神様、私を見られて慰労を受けてください。」
自分が伝道された時の「決意」を思い出しました。
いつしか、自分の「限界」を知った(つまり「信仰」が弱くなった)ことも、改めて考えさせられました。
急に元に戻れないとしたら、下記ぐらいが参考になります。
から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)
もしも私たちがキリストの心になりたければ、私たちはキリストの考え方を知らなければならないでしょう。
イエス様と真のお父様、文鮮明牧師はそのことを教えておられます。そのような招待状をもらった私たちは何ができるか考えてみましょう
「私たちは今日、何ができるのか?
毎日何ができるのか?
どのように神様を喜ばせ、他を助けることができるのか?」
という事です。
皆さんは自分がミリオネラー(億万長者)であれば何でもできると思うかもしれませんが、勿論そうであれば皆さんはたくさんの事ができるでしょう。
しかし、私たちがたとえ有名でなくても、
少なくも私たちがここで生きて息をしているなら、
私たちは話すことができるし、
何かをすることができます。
それは今日私たちが誰かを助け、親切にできるという事です。
人々を励まし、導いてあげることができます。
手紙を書くこともできます。
少なくとも、私達は悔い改めることができます。
その模範は、康御母様です。
その祈りのみ言葉を聞いて夕食を摂ってからは私が異なりました。‘私は不孝女のように神様にすがって私のことを満たそうとしたが、この青年は自身のことを捧げながら神様に侍って楽にしてあげようとするのだ!’という反省になりました。そのような心が起こるや涙が流れました。私がむせび泣いているのに、アボニムが、「今日この幼い娘がここに訪ねて来ました。神様、何の御心があってか本人は知りませんが、この娘をして神様の真のみ旨を知って感じ行うことができるようにしてください。」と言ってむせび泣かれました。そのようにむせび泣かれるときはのぞが詰まって祈りを続けてすることができずじーっとしておられて再び続けて祈りをされ、またむせび泣かれて祈りをされました。その姿には形式も、飾り気もなく真心だけがありました。その祈りに私は大きな恩恵を受けました。
その祈りを聞きながら私は、‘ここには神様が共におられる。’ということを多く感じました。のぞが詰まってしくしくとむせび泣きながら真実の祈りをされるその姿には何事も混ざりのない真実、神様を楽に侍らなければならないという孝子の心情を感じることができました。‘私はその間イエス様を信じてきたが、間違って信じたのだ!’と感じました。私は毎日私の欲だけをはたらかせて神様に要求だけして生きたのです。「神様、私を天堂(天国)でもよい場に送ってください。イエス様も誰よりも一番先に会うようにしてください。」と言う祈りを捧げる不孝をしました。私が動機になり、欲が中心になって私を中心に信仰したことを悟りながら悔い改めの涙があふれ出ました。世の中の父母もその父母に来て何をくださいと言って得ていく子女よりは服の1着でも、ご飯の1膳でももてなす子女が貴く愛らしいのです。よくよく考えてみると神様は私よりもこの青年をもっと愛するという心が起こりました。そして私の祈りよりは青年の祈りをもっとよく聞いてくださるものだという思いも起こりました。
自分の「限界」を知った(つまり「信仰」が弱くなった)こと自体が、「自分中心」だったと悔い改めます。
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