「クリスチャンと議論するために」久しぶりに キングズレポートなどから
次の過去記事があります。
2019/05/22 黙示録から クリスチャンと議論するために
2019/05/03 クリスチャンと議論するために 福音書から
真のお父様に帰ろう!『三代王権・こころのサンクチュアリ教会』: 新刊「捨てられた我らの父」18章◆キングスリポート10/12(土)2019
から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)
1.原罪
今日クリスチャンたちが救援を受けました。 はい、彼らは救援されました。 しかし、クリスチャン2人の男性と女性が子どもを産んだ時、その子も救援を受けなければならない状況なのです。これは神の本来の理想ではありませんでした。 アダムとエバが生まれた時、彼らは救援が必要でしたか。 そうではありません。 アダムとエバが初めて創造された時に彼らは救援が必要ではなかったです。 ところで、なぜ私たちの世界で生まれるすべての子どもたちは、生まれたら救援を受けなければなりませんか。それは神の本来の理想ではありませんでした。 それで神様の摂理は、この世で生まれた子供たちが救援を必要としない時期が必要なのです。 彼らがアダムとエバがこの世に生まれた時、罪なく生まれたように罪なく生まれ変わらなければならないのです。 その世の中が遠くはないのです。
原理講論36頁から引用します。
更に加えて、イエスの十字架の代贖によって、明らかに救いを受けたと信じている人々であっても、有史以来、一人として、救い主の贖罪を必要とせずに天国へ行けるような罪のない子女を生むことができなかったという事実は、彼らが重生した以後においても、それ以前と同じく、原罪が、その子孫にそのまま遺伝されているという、有力な証拠とならざるを得ないのではなかろうか。
外的な「天一国」だけでなく、内的な「血統転換」「祝福結婚」の必要性を説明するものです。
2.霊的な死
今日のリマのみ言は、マタイによる福音書17章です。
1 六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
2 ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。
3 すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。
イエス様は上の聖書の聖句にあるように、この山に登ってターニングポイントを迎えられます。また重要なことは、弟子たちが彼がモーセとエリヤと話すのを見たことです。これは真のお父様の教えを見せてくださっているのでとても重要です。 アダムとエバとその以後いた人々はずっと存在します。生と死についての内容は、聖書的には別の意味を持つのではないでしょうか。聖書では霊的な生と死があります。 霊的世界にいる多くの人々は霊的に死んだが、しかし彼らの霊は引き続き存在します。 そして、生きていた人なら誰でも霊的世界でずっと存在します。 アダムとエバ、モーセとエリヤを含めてです。
原理講論212頁から引用します。
堕落による死とは、すなわち、人間始祖が善悪の果を取って食べることによって招来した、正にその死を意味するのである。ところで、その死は、いかなる死であったのだろうか。創世記二章17節(文語訳)を見れば、神がアダムとエバを創造されたのち、彼らに善悪の果について「汝之を食ふ日には必ず死べければなり」と言われた。それゆえに、神が言われたとおりに、彼らは取って食べたその「日」を期して、必ず死んだと見なければならない。しかしながら、その死んだアダムとエバは今日の我々と同じく、依然として地上で肉身生活を続けながら、子孫を生み殖やして、ついには、今日の堕落した人類社会を形成するまでになったのである。このような事実から見て、堕落によって招来したその死は、肉身の寿命が切れて死ぬことを意味するのではなく、神の善の主管圏から、サタンの主管圏に落ちるという意味での死をいうのであることを、我々は明確に知ることができる。
その「日」でなくても、最終的には死ぬようになったことを、クリスチャンは考えているのかも知れません。
しかし、霊界で永遠に存在するとすれば、地上で死ぬことは、それほど問題ではないはずです。
むしろ「血統問題」が起きた、ということを考えさせるものです。
そもそも「善悪の果」が何か、考えなければなりません。
現代でも、青少年が堕落する時に「失うもの」を、考えなければなりません。
そして、再臨時の「復活」も、考え直さなければなりません。
「祝福結婚」と「先祖解怨祝福」の必要性を説明するものです。
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