補足 「劉会長による原理本体論(当時)の問題点」について
6月26日の当ブログの補足です。
もう一度、原理本体論766頁と755頁から引用します。
理想世界での共生は、経済共同体として分配が中心となります。
本然の経済的共同体は、生産が中心ではなく、分配が中心だというのです。
本然の理想社会の経済体制は、生産ばかりするのではなく、
生産したものを
どのように国民に平等に分け与えるのかという、
分配正義が核心となるのです。
これと比較するため、原理講論533頁から引用します。
(506頁にも、ほぼ同様な記述があります。)
必要かつ十分な生産と、公平にしてしかも過不足のない分配と、全体的な目的のための合理的な消費をしなければならない。
原理講論では、「生産」と「分配」と「消費」が、同等に記述されています。
ところが、原理本体論になると、「分配」が強調されるようになりました。
さらに、「公平」「過不足のない」という表現が、「平等」に変わりました。
これによって、「天一国憲法」の精神から、遠ざかってしまいました。
亨進様と國進様は、「生産」を重視し、努力の差による「結果の不平等」を認めています。
天聖経の「祝福家庭」第4章「祝福家庭と入籍」2)入籍のための条件①所有権、血統、心情圏転換㋑ イ 所有権転換(1380頁)から引用します。
アダムの所有として決定したあと、神様の前に戻して神様のものとして認められてから、再度アダムを通してもらって、初めて自分の所有権時代が来るのです。
このみ言葉に関連して、「分配」が行われるイメージは、私も持っていました。
しかし、よくよく見てみると、「結果」を「分配」するとは語られていません。
「所有権」が与えられるということです。
4月27日の亨進様説教から引用します。
さあ、天一国憲法では、神様の王権はありますが、誰が神様の王権と共にある王ですか?誰が国の、神様の王権と一緒に国を、主管するようになりますか?誰が?市民が!覚えていますね、数千回話したでしょう?神様の王国では、一般市民(に有る権利)は、人類歴史(において)の王だけにある権利でした。覚えていますか?皆さん。
人類歴史上の王たちの権利は何でしたか?先ず初めは何ですか?所有。そうですか?そうではないですか?所有。そうですね。所有権。
私達には「所有権」が与えられました。
努力した分だけ報われる「所有権」です。
それでは、私達は、いつ「所有権転換」をしたのでしょうか?
上記、天聖経の次の頁、1381頁には「総生畜献納祭」に関するみ言葉があります。
そのような摂理もありました。
しかし、ありがたいことに、今は「解放釈放時代」を迎えました。
天聖経の「礼節と儀式」第3章「礼拝と教会生活礼節」5)献金は法度に合うように捧げるべし①10分の1献金を捧げる法(1014頁)から引用します。
10分の1献金は、所有している物質中の10分の1を神様に捧げることにより全体を捧げる、という意味をもっています。
「王の権利」に伴う「王の責任」です。
最後に、亨進様の考える「共生」とは何でしょうか?
4月14日の当ブログ「本当の人たちのネットワーク」で引用した、2016年4月6日の亨進様説教のみ言葉を再度引用します。
顔(正体)の見えない政府からただお金だけ受けとるのではなく、
実際に目の前にいる人々から援助を受け、教育も受け、
発展させながら、責任を持つ人間になりながら、
勝利する事ができる人になれるようにしてあげ、
人々が投資しながら私との関係を再び作ってあげ、
教会につながったり慈善事業につながったりする、
本当の人たちのネットワークを育てるようになっていました。
疑問を感じる原理本体論や、抽象的で当たり前のような原理講論と比べて、生き生きとしたイメージが伝わってきます。
これが「共生」ではないでしょうか?
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以下は、やや強引な、まとめです。
「共生」は経済に関することです。
上記に述べたものです。
「共にビジネス・ファミリーを繁殖して、生計を立てよう」と表現すれば、第二祝福的です。
「共栄」は政治に関することです。
国民は皆、王様です。
「共に王様として主管して、国を栄えさせよう」と表現すれば、第三祝福的です。
「共義」は思想に関することです。
キリスト教と統一原理です。
「共にキリストに似て個性完成して、義を立てよう」と表現すれば、第一祝福的です。
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