「本当にみ言葉の中で喜び、み言葉の中で復活し、また神様に出会い、また聖霊と共に、そのように私たちが生活できる」
昨日の記事で引用した、王妃様の御言葉を再掲します。
本当にみ言葉の中で喜び、み言葉の中で復活し、また神様に出会い、また聖霊と共に、そのように私たちが生活できる、信仰が生活化されるそこに焦点を合わせ、私たちがこのようにできるという時代的な恩恵を受けたことは、嬉しくて良いことです。
江利川会長のリマを引用します。
5月14日
天基12年天暦4月3日
おはようございます。💝
大陸会長会議がただ今終わりました。
今朝のリマです。
「信仰生活の目的は、自己完成をなして無限なる愛を感じ、それでもって無限な幸福を享受しようとすることである。」
(み旨の道 信仰生活より)
王妃様の御言葉に戻ります。
から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)
私もそれほど深い祈祷をする人ではないので、お話しするのが少し申し訳ないですが。私が長い間、気になっていたことが一つあります。 関連した内容なので言いますが、クリスチャンは疲れることなく信仰生活するのに、統一教徒はなぜ信仰生活のなかで疲れてしまうのか? とても気になっていました。
どうしたら私は楽しく信仰できるのだろうか。 どうすれば神様に出会って信仰することができるだろうか? それが私にとってとても大きなテーマでした。 そういう部分についていつも悩んでもみたし、 いろいろな方法もやってみました。
どうすれば祈祷生活がもっと深まるのかと悩んだ挙句、色々なことを探してみたのですね。多くのキリスト教宣教師の方たちが宣教に行くとだんだん枯れてきてしまい、仕事だけをしていたら神様も忘れて、恩恵も忘れてしまうような場合が多々あるというんです。 そこで、そのような状況をどのように克服したのかを聞いた時、「Six Secrets to a Powerful Quiet Time」があるという話を聞いたんです。 それでやってみているところです。 簡単に言えば、これが神様との1対1の訓読会です。 誰かに見せるために集まって行う訓読会ではありません。 私が神様からみ言葉を直接受ける時間です。
核心はこれです。 神様にいただいたみ言葉を一日中黙想することです。 そうすることで力が生まれるのです。 一日中、神様のことを考えることができる力が生まれるのです。
から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)
◆天聖教です。宇宙の根本から3章3)2.なぜ真の父母が必要なのか
p1675(p1736)です。
‥‥
神様は、私たちの本当の父母です。ですから、どれほど近いでしょうか。
◆リマは詩篇3篇です。
‥‥
3 しかし主よ、あなたはわたしを囲む盾、わが栄え、わたしの頭を、もたげてくださるかたです。
4 わたしが声をあげて主を呼ばわると、主は聖なる山からわたしに答えられる。
5 わたしはふして眠り、また目をさます。主がわたしをささえられるからだ。
6 わたしを囲んで立ち構えるちよろずの民をもわたしは恐れない。
7 主よ、お立ちください。わが神よ、わたしをお救いください。
◆今日の聖句は詩篇118篇5から13節です。
118:5わたしが悩みのなかから主を呼ぶと、
主は答えて、わたしを広い所に置かれた。
118:6主がわたしに味方されるので、
恐れることはない。
‥‥
118:13わたしはひどく押されて倒れようとしたが、
主はわたしを助けられた。
愛され、愛する、授受作用が必要です。
から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)
霊界に行くようになれば鳥たちが友人になってあげ慰労の相対になるのだ。喜びの対象圏として生きなければだめなようになっているのだ。万物がそうであれば神様の前には人間もそうでなければならない。そうじゃないか?犠牲にならなければ。当然なことだ。
最近4日間の記事の、結論が出たような気がします。
それは結局、原理講論の基本でした。
「人類歴史の終末論」から引用します。
既に創造原理において詳細に論述したように、神が人間を創造された目的は人間を見て喜ばれるためであった。したがって、人間が存在する目的はあくまでも神を喜ばせるところにある。では、人間がどのようにすれば神を喜ばすことができ、その創造本然の存在価値を完全に現すことができるのであろうか。人間以外の被造物は自然そのままで神の喜びの対象となるように創造された。しかし人間は創造原理において明らかにされたように、自由意志と、それに基づく行動を通じて、神に喜びを返すべき実体対象として創造されたので、人間は神の目的を知って自ら努力し、その意志のとおり生活しなければ、神の喜びの対象となることはできないのである。それゆえに、人間はどこまでも神の心情を体恤してその目的を知り、その意志に従って生活できるように創造されたのであった。
逆境でも、順境でも、敵といる時も、友といる時も、です。