群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)

私ども夫婦は、2015年8月30日に米国サンクチュアリ教会本部で行われた「真の御父様の聖和3周年記念礼拝」(蘇生期・真の基元節)および「真の御父様の権威に戻るための祝福式」に参加し、同日の夜、日本において「真の御父様の権威に戻るための祝福式」を行うための、任命の祝祷を受けました。
2015年12月30日にCyberサンクチュアリ人協会の会長を辞め、文鮮明真の御父母様・文亨進二代王様・文國進監察総監様の側近である江利川総会長の下で働くため、日本サンクチュアリ協会に移籍しました。

「平和軍と平和警察」「銃」「農村」




から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)



自分の同胞たちが死ぬのに自分は生きると逃げるのか?

 平和軍と平和警察にならなければならない。平和警察に支援する人一度手を挙げてみなさい。平和軍隊、平和軍人になろうという人手を挙げてみなさい。男たちは何あげなくとも出なければならないのだ。(笑い)あ、それは簡単だ。車に乗せて一線に持って来て置けば出るのだが。出たが自分の同胞たちが死ぬのに自分は生きると逃げるのか?そ奴の子は行くことを後で激しく吹いてしまわなければならない。ずるい子供たち!そのような屍になるのか?


 文総裁は無慈悲な人だ。例を挙げて言えば、ノロ(鹿科の動物)のようなもの鹿のようなもの、八道江山にノロの中で一番大きなノロがどこにいるのか?大将のノロがいるという噂を聞いて探しに行って、一双の大将のノロがおればそこでそれをつかむために上がって、一度に会った。雪が降る夕方頃になったが、暗くなったので穴でクズ(칡)の根を掘って食べようとハアハア喘いでいるのだ。


 その二頭、雌雄をびゆーっと筆柄(ふでづか)をもって通いながら刀でもって心臓に差し込んで血を吸い込むのであり、それを怨讐の心臓と考えて。それ以上できる心を持って、それ以上の愛の心を持って許しをするのでそれは天が、サタンも感服するのだ。

御父様は、「愛の人」である前に「正義の人」だったのかも知れません。



銃に対する関心も多い。

見ればわかるのだ。人々が何をつくるというようになれば私がつくれば作る。銃も二乘式という銃があったが、その時のお金で米俵一俵半だ。値段がそうだ。それを買おうと父母に話すと父母様がむつかしい暮らし向きで兄弟たちが多い中で小さな奴に買ってあげるようになっている?父母祖父母が一緒に住んでいるのに。だから仕方なく空気銃の投げ売りの奴を買って私が修理して新版銃のように使いすべてそうだった。銃に対する関心も多い。

家庭連合の人達、あるいはサンクチュアリでも、「鉄の杖」に疑問を持つ人達のご参考です。



農村に行って働いてみなさい

 公的な立場で二人が一つでなければだめだ。男が体心が争えば公的なことをできない。何の罪があっても・・・。体心が争う人は、良心的に‘体心が未だに争う。’という人は農村に行って骨が倒され肉が裂けるように働いて見れば私的な私の責任が公の道を受け入れなければならないということを知るのだ。私はそのように考える。


 統一教会で苦労したこと、農村に行って骨髄が裂けるように地を掘りながら一度働いてみなさいというのだ。私は土地も掘りありとあらゆることをすべてした。先生が出来ないことがない。カキの穴を掘るのも私が記録を破った。カキの穴でしよぃこを支えることもよくする、カチャカチャと。のらくらな奴ではないのだ。

「心と体の統一」は、「真の愛」でなされるという御言葉を聞いてきましたが、「農村」でなされるというのは新鮮です。
(二代王様は、「訓練」でなされるという表現ではないかと思います。)

「無慈悲に自分自体に対する批判をしなければならない。」



から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)


 台風が吹いて来れば台風を真っ向から押して行って台風を防ぐと言える、全ての事を遡って行かなければならない、反対に上がって行かなければならない時代を探さなければならないのだ。時が今やそのような時になる。そうでなければ、それをできなければついて行った食口たちと頻りに遠くなる。二つの輩が生じるのだ。


 水で死んだ魚のように流れていく群れになるのか、生きたものになるのか?生きた小さな魚もいくら洪水が出ても側から上がって行くのだ。自分が生きることがわかる。それと同様に自分たちが受ける人生行路のすべてのものが流れて行くのにおいて包括されて従って流れて降りて行ったのだ。後退したのだ。どれほど前進したのかということ、これから皆さん自体が無慈悲に自分自体に対する批判をしなければならない。


 そのためにその国の一番むつかしいこと、その環境の一番むつかしいこと、私がぶつかってそれを打開するためにどれほどの期間を過ごしたのかという問題をいつでも批判しなければならない。一つだけではない。台風が吹けば一か所に吹くのか?台風が吹けば一か所に吹かないというのだ。四方に吹いてくるものを一か所で防ぐそれ自体がいつも楯の起源になってそこに補うことができる私の余力があると言えば残されるのであって、余力がないという時には終わりだ。


 そこで自分を手中する人たちは、自分の思い通りするという人たちは後退だ。これをよく知りなさい。今組織を新たに編成してすべてそうだが、昔自分の麾下にいた人が上に上がったとそれを普通視すればだめなのだ。


 行くのに平安でありえないのだ。全ての事が、世の中のこととか、天のことや同様だ。平安であることを願いながら自分が願わないと思い通りできない。


そのためにいつも流れる水について行かず、遡って行かなければならない。風の吹く所を避けて行かず私が迎えて行かなければならないのだ。私というのはそのようなことをしなければならない。責任者はそのような道を行かなければならないのだ。


アメリカに残った人達は青字、自分は赤字だと、批判します。

「私も無慈悲な人です。」

昨日に続くような内容です。



から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)

私も無慈悲な人です。無情な人だ。無情な人なので屈服をしない。間違ったとすれば、口をぴたりと加えたとすれば口を開けて降伏をしない。無情だというのだ。無情なのだ。情がないというのだ。


 怨讐の前には情がない。


アメリカが間違った

UN軍が再び出発しなければなりません。UN軍が失敗した。韓国戦争というのは神様とサタンと争った戦争であるが、負けた!アメリカが間違ったのだ。アメリカがよくできなかった。


 アメリカが第2イスラエル圏だ。だから全部すべて奪われてしまったのだ。滅茶苦茶に、どこに行こうと主人のいない世の中に行くのだ。共産党がありとあらゆることをすべてしているじゃないか?その人たちを争わず屈服させることができる何がある。精神を引き締めなければならないのだ。


下記を読了しましたが、最後の(?)引用をしたいと思います。

から引用します。(282頁)
(執筆・出版に感謝申し上げます。)

「私の国はこの世のものではありません。もし、私の国がこの世のものであれば、私に従っている者たちは、 私をユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。 しか し、実際そうならなかったのは、私の国がこの世のものではないからです」


イエス様と御父様の「恨」を解くのが、今、二代王様だと思います。

「米国がこの戦いにうまく勝ち抜くことが出来なければいけない。」 - 群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)