「十字架」の定義 「イエス様よりも平安であった」御父様
(冒頭の蛇足)
内容は各自のご判断ですが、ブログ村のバランス、および、「人間関係」によって、ささやかながら(自主的に)「宣伝」させて頂くことにしました。
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「論戦」に関する「落穂拾い」 - 群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)
から自分の言葉を引用します。
正直なところ、この問題について、私は「不勉強」でもあり、「十字架」かどうかは分からない、と言わせて頂きます。
「十字架」の定義にもよる、と思います。
「不勉強」は、下記により、少し改善されました。
それを「十字架」の定義に当てはめるのが、この記事の第一目的です。
中村さんは「戻る期限に間に合った人」です。実は「後から来た人」ではありませんでした。 - 群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)
から自分の言葉を引用します。
上記は、「聖和の意義と価値」について述べており、下記は、「聖和の日時」について述べています。
上記、御父様の「蕩減復帰の代価」としての自主的な「十字架」と、下記、カイン・アベル「一体化の条件」は、矛盾するものではなく、両者ともに、「復帰摂理の勝利」のためである可能性があります。
2015年6月3日回答2:亨進様及びサンクチュアリ教会本部聖殿宣教本部を引用します。
たとえお母様(韓氏オモニ)がお父様のご聖和後に選択を間違い、サタンと一体になることがあったとしても、カイン・アベルが一体である以上は復帰摂理が同世代において勝利できるのです。
これが勝利条件となって、お父様は3ヵ月後の天暦7月17日をご聖和の日時と定められたのです。
「十字架」の定義が「蕩減復帰の代価」であるとしたら、御父様の聖和には、そのような「意義と価値」がある可能性があります。
「十字架」の定義が「誰かの失敗が日時を決めた聖和」であるとしたら、御父様の聖和は、そうではありません。
いずれの場合でも、カイン・アベルのお陰で、御父様の心情は、イエス様よりも平安であっただろう、と言うのが、この記事の第二目的です。
271~272頁から引用します。
さて、イエスは見悶えさせて祈っていた。
「父よ、わが祈りに耳を傾けてください。そしてどうか、できることでしたれば、この杯を私から過ぎ去らせてください。私は心配なのです。私がいなくなったら、誰が父の願いを背負ってくれるのでしょう」