群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)

私ども夫婦は、2015年8月30日に米国サンクチュアリ教会本部で行われた「真の御父様の聖和3周年記念礼拝」(蘇生期・真の基元節)および「真の御父様の権威に戻るための祝福式」に参加し、同日の夜、日本において「真の御父様の権威に戻るための祝福式」を行うための、任命の祝祷を受けました。
2015年12月30日にCyberサンクチュアリ人協会の会長を辞め、文鮮明真の御父母様・文亨進二代王様・文國進監察総監様の側近である江利川総会長の下で働くため、日本サンクチュアリ協会に移籍しました。

「アベル的キリスト教の人達を集める摂理」に意義と価値があると思います。


から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)


講演文選択の理由

お父様は米国人を初めてご覧になりながら、もちろん食口はいますが、食口ではなく一般米国人を初めてご覧になりながらどのような御言を語られるのか、これは特に米国がこのような危機にあるのでその時語られた御言をもう一度私たちが確認して、私たちが活動するのですが参考にすることが良いのではないかと考えてこの講演文を選択しました。



私の「余談」の材料

この宇宙は存在世界であることを私たちは知っています。それは誰もが認めています。存在するためには力がなければならないということを知っています。その力があるためには、力が先か存在が先かということが問題なのです。力がなければ存在もありません。ところが、その力というのは作用せずには現れないというのです。力が出る前に作用という現象が必ず必要です。


また、作用するならそこには力がある前に先行条件として主体と対象が絶対に必要であることが否定できません。この主体と対象がやり取りすることで働き、働くことによって力が存続するのです。つまり、力が出る前になければならないものが何かというと、主体と対象だということです。

このような御言葉は何度も読みましたが、上記太字の2つが矛盾するように見えることに、初めて気づきました。
考えた結果、上記赤字の「存在」は、「存在物」ではなく「存在状態」だと理解しました。



私の「本論」の材料

今ここにもイエス様を信じる人がたくさん来られたと思います。今信じているキリスト教ではだめなのです。そうしていくと、イスラエル民族のようにばらばらになってしまうかもしれません。今日、全世界に散らばっているキリスト教徒たちは、神様を中心として、一つになり再び来られる主が、この使命を持って来られるので、再び追放することがないように基盤を築く運動をしなくては、これからのこの世界の展望は悲惨だと考えざるを得ません。



上記に関するエルダー本部長の祈祷

その時、全ての米国国民が何も知らない所に来られて私たちを教育して下さいました。特にキリスト教徒達を対象に「今の現在のキリスト教を持ってしては駄目だ。キリスト教が一つになってこそメシアに会うことができる、救世主に会うことができる」このように御言を語られた事を考えるとき、今日の日も米国のキリスト教が一つになる事ができていないことを本当にお父様の前に悔い改めるしかありません。


二代王様は今、アベル的キリスト教、すなわち、キリスト教の教会に通っていなくても、キリスト教の基本的信仰を信じて、基本的倫理道徳を守る人達、その様な人達を集めて摂理をされていることを知っています。

エルダー本部長は、「一つになる」ことに注目していますが、「追放することがない」ことが、より核心だと思います。
だからこそ、「アベル的キリスト教の人達を集める摂理」に意義と価値があると思います。

「御霊によって歩きなさい。」


から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)

皆さん、今日はガラテヤ書5章です。

5:16わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。

5:17なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。

5:25もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。


聖霊に屈服しなければならない(16節)

すべての霊的対立で、信徒は聖霊に屈服しなければならない。

つまり、自分の欲求を捨て、聖霊に服従しなければならない。神が喜ぶような人生を送ることができるように、聖霊に頼り助けを得なければならない。


日常生活から罪を無くす(17節)

キリスト教徒は肉体の悪しき渇望から逃れるために聖霊に服従するなら、彼は聖霊によって導かれる。そうすることで、彼の日常生活から罪を無くすことになる。

「導き」という単語は自発的屈服を暗示している。信徒は肉体によって導かれるか、聖霊によって導かれるかを選ぶことができる。聖霊で導かれる者は、律法の下にいない。彼が倫理的生活をし不道徳なことをしないように聖霊が導き、主管するため、律法の制限は必要ない。


聖霊が新しい命を下さった(25節)

改宗するときは我々に聖霊が新しい命を下さったので、我々は生涯あなたの導きと勧告に従わなければならない。


異端者?パウロ 再読「見捨てられた我らの父」から - 群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)
で引用した、御言葉を思い出します。


バプテスマ

新約聖書におけるバプテスマは、信者が天の御国に入るために罪の赦しを受けるための唯一の手段でした。

ペテロとパウロが信じていたように、バプテスマによってのみ、信者はイエスの死と復活を受けることができるのです。

この儀式に服従した後、クリスチャンは律法のすべての文字に従わなければなりませんでした。

パウロが心の割礼を主張したことは、彼の著作を旧約聖書と新約聖書に結びつける要となり、また、罪の赦しのためのバプテスマは一つしかないという主張は、キリスト教を正統派ユダヤ教よりもさらに厳しく厳格な信仰にしました。


二箇所の赤字の「矛盾」は、「自由」か「強制」かの違いです。
罪(肉体)から解放されているか、拘束されているかの違いです。
(菅井さんと私の違いかも知れません。)

おそらく①愛が、他の全ても可能にします。(9つの徳目)


御霊の実(9つの徳目)
(便宜上、番号を挿入しました。)

皆さん、今日はガラテヤ書5章です。

5:22しかし、御霊の実は、①愛、②喜び、③平和、④寛容、⑤慈愛、⑥善意、⑦忠実、5:23⑧柔和、⑨自制であって、これらを否定する律法はない。

信徒一人一人が9つの徳目をすべて備え、聖霊の結実を結ばなければならない。

(中略)

報いを考えずに他人のために進んで自分を犠牲にすることだ。

喜楽(喜び)心の喜びである。

平和は心の平穏であり、心配や恐れから解放される。

忍耐(寛容)とは、他人に対する忍耐力であり、短気とは反対で、静かに傷に耐える性品である。

慈悲(慈愛)親切である。

霊性(善意)寛大である。

ここで忠誠心(忠実)信頼性である。

穏やかさ(柔和)とは他人との関係における礼儀と思いやりである。

節制(自制)自分の熱望と欲望を制御するのに自制力を持つことである。

おそらく①愛が、他の全ても可能にします。


「裁きの思いに満ちた競争や、恐れ、疑い、不信等々は、自らの素晴らしさを誇示しようとする人間の創り出す副産物なのです。」 - 群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)
で引用した、御言葉を思い出します。


本心の愛したいという本性の中に安息することができるために、本当の安心を得ることができます。

私たちが常に自分のエゴを空(から) にする努力を一生懸命にやれば、自然に本心から 「垢(あか)」を取ることができます。 もしも私たちが、自分のことだけに気を使っていると、 何をやってもう まくいかない日とか、 些細(ささい)な議論、一つの批評や批判等 によって完全に圧倒されてしまいます。 全くくだらないことが拡大されて、破滅に瀕する世界をつくり出してしまうのです。 しかし私たちが、もっと他者のことを思いやれば——これは本心の自然の傾向なのですが——私たちはこの歪みと、それが生み出す苦しみから解放されることができるのです。 もしも私たちが、他者の痛みをいつも心に抱き、また頭に描くならば、たとえうまくいかない日でも 「世界の終わり」ではなくなるのです。


私たちの内に自然に備わっている、他を愛し助けようとする傾向性が、心の安定性の源泉です。本心の愛したいという本性の中に安息することができるために、本当の安心を得ることができます。