「神が道徳的に決めることと、私たちが道徳的に決めることに、目に見える違いがほとんどなくなるまで、私たちはどんどんどんどん近づいていく。」
昨日の記事と関連性(キリストと他の人間との対比)があります。
から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)
神が道徳的に決めることと、私たちが道徳的に決めることに、目に見える違いがほとんどなくなるまで、私たちはどんどんどんどん近づいていく。
先日、国進兄さんが統計学と高度な数学、そして、1/xの運動について話していました。xの値が大きくなるにつれて、分数1/xの値は小さくなっていく。だんだんと、そして無限にゼロに近づいていくが、決してゼロにはならない。
このように、私たちは訓練を積むにつれて神に近づいていくが、決して神にはなれない。
それにもかかわらず、神が道徳的に決めることと、私たちが道徳的に決めることに、目に見える違いがほとんどなくなるまで、私たちはどんどんどんどん近づいていく。
御言葉の趣旨から外れますが、「アキレスと亀」を思い出しました。
「アキレスと亀」を検索した結果、次を読みました。
例
0~1で構成された数直線に向かってダーツを投げるとする。このとき、中間地点である0.5という点にダーツが刺さる可能性はいくらか?
このとき、数学的に0~1の間に点は無数にあるので、
求めたい場合の数÷起こりうる場合の数 = 1÷∞ = 0
となります。つまり確率は0。
0.5には絶対に刺さらないという結果になります。
しかし、それはおかしい。なぜなら実際0.5に刺さることもあるからです。
ということは数学的には0と答えがでたことが現実では起こる。
確率論でこのような問題は、区間で考えます。点ではなく、そこにわずかでも幅があれば、そこに刺さる確率を計算することができるからです。
2つの赤字は、食い違っています。
食い違いが起きる理由について、参考は次です。
9.9999999…は9がいくつ続こうと、やっぱり10ではない気がしてならないのです。小数点以下の9が無限個あるとしても、やはり10ではない。実はこの話は、数学者たちを悩ませてきた、無限小や無限大の問題に関わってきています。
2つの赤字は、次の象徴だと思います。
人間の罪は0にはならない
人間の道徳と神の道徳が一致する確率は0
青字は、両方に対する(数学的な)希望です。