教会長としての懺悔 説教について
1月19日の当ブログ「4年ぶりの『チャンプモニム・オンマンセ』」から引用します。
ウチの奥さんが家庭連合にいた時の願望が今日実現したと言って喜んでいます。
それは何かと言いますと、礼拝時間は少なくして その後のディスカッションを充実させる礼拝を待っていたということでした。
私もディスカッションの時間がもっと欲しいくらいに充実して楽しかったです。
教会長のスタイルは理想的だとウチの奥さんが言ってます。
この言葉に甘え、私の説教(式次第には「訓読説教」と書いています)は、非常に短いものです。
インターネットで、亨進様や江利川総会長の説教に、直接触れることのできる時代です。
真の天一国国歌と家庭盟誓で礼拝を捧げる、コミュニティーが集うことで、神様を喜ばせることが主眼です。
「み言葉を訓読すれば説教になる」
「模範家庭の証が説教の代わりになる」
そのようなみ言葉も記憶しています。
「これくらいなら自分もできる」
と思って、各家庭教会が自立・拡散・繁殖する願いもあります。
交代制で経験して頂く案も、直近の礼拝でお話しました。
とは言え、自叙伝152頁を忘れることはなく、申し訳なく思っていることを告白します。
私は生涯を祈りと説教で生きてきました。しかし、今でも人々の前に立つ時は恐ろしさを感じます。人の前で公的な話をするということは、数多くの生命を生かしもすれば殺しもすることだからです。私の言葉を聞く人を生命の道に導かなければならないということは、本当に重大な問題です。生死の分岐点に立って、いずれが生の道であり死の道であるかをはっきりと判定し、心の底から訴えなければならないのです。
もちろん私も恐ろしさを感じます。
少なくとも間違ったことを言わないように、短く終えているとは言えます。
今も私は説教の内容を前もって定めません。前もって準備すれば、説教に私的な目的が入り込むかもしれません。頭の中の知識を誇ることはできますが、切実な心情を吐き出すことができなくなってしまいます。私は公の席に出る前には、必ず十時間以上お祈りをして真心を捧げます。そうやって根を深くするのです。葉っぱは少々虫に食われても、根が深ければ影響はありません。それと同じで、言葉が舌足らずでも真実の心さえあればよいのです。
私は内容の準備をしますが、お祈りの準備は少なく、反対です。
しかし「真実の心」はあります。
それは、このブログと共通です。
説教でブログを使う理由でもあります。
教会を始めた頃、私は作業着に使っていた黒い染みの付いた米軍兵士のジャンパーを着て、壇上に立って汗と涙にまみれて説教しました。痛哭しない日がありませんでした。涙が心の中に充満して外に流れ出しました。気が遠くなり、息が絶えてしまうような日々でした。衣服は汗にまみれ、頭からは汗の粒が流れ落ちてきました。
私達は、御父様の基準と比べることはできません。
という言い訳しかできず、申し訳ありません。
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