キリストの「血」について ヘブル人への手紙から
(翻訳・映像化に感謝申し上げます。)
しかし、私達の「血」と、キリストの「血」は、価値が違います。
しかも、象徴的でなく、実体的なものでした。
二代王からのお母様の聖和に関するみ言◆キングスリポート3月6, 27日(2日分) から引用します。
(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)
「イエス様は十字架にかけられたこと、私のせいです。」真のお母様はこのように完全な信仰で生きられました。
このメモは真のお母様が何か公的な目的で分かち合うために書かれたものではなく、信仰告白として書かれたものです。
真のお母様の信仰の深さと姿勢をかいま見ることができます。「赦してくださり感謝します。ありがとうございます。」
「この場面を泣きながら読み、救世主を思う」と三つ文章を書かれました。
この部分はヨハネによる福音書の一番最後の章を読まれました。
これが「主流」、「クリスチャン」の信仰です。
そうでないと、「再臨主」の価値が分からず、「裏切り」が行われ、「異端」が生まれます。
ヘブル人への手紙/ 07章 27節
彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。
「一度」でも尊いものなのに、「再臨主」は「七死」までされました。
ヘブル人への手紙/ 09章 12~15節
かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。
もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、
永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。
それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない。
「再臨主」は、「その後の契約」すなわち「新約」のクリスチャン、そして「成約」の私達も含めて、「犯した罪過をあがなうため」、「七死」までされたのだと思います。
ヘブル人への手紙/ 09章 22節
こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。
ヘブル人への手紙/ 10章 19~20節
兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、
彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができる
「聖霊の役事」や「戻る聖酒」の恩恵に感謝致します。
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