「心情」の御言葉
昨日の当ブログの「超整理」は、私の「個性」「趣味」の典型でした。
「情」という項目すら、「事務的」に整理してしまいました。
その反動で、反省する御言葉を思い出しました。
故郷をたどり、心情にしみ込んだその心をもって、「お母さん!」と呼ぶとき、涙がひとりでに出てくるのと、何の感ずることもなくさっさと一人で行って、「お母さん、私、来ましたよ」と言うのとどちらが母の心に合うでしょうか?
昔の幼かった時の事情を隅々までよく知って、母を恋しく思い、たっぷりしみ込んだ心をもって墓の前で、「お母さん!」とあいさつするのと、どちらが母にとって望ましい息子だろうかというのです。どのような息子が願わしいですか?
それと同じく、統一教会の文総裁が故郷を訪ねていく時は、神様と人類の始祖を中心として本然の心の中でそうあり得るし、また、そのようになることを願ってきたのです。
真なる神様の愛を中心として因縁づけられたその世界の、真なる人類の父母と共にたっぷり抱かれ得る息子、娘になり、昔、その園で神様と私たちの真なる父母に侍り、真なる神様と真なる御父母様の愛の中にひたり、天下のすべてのものが神様の懐にあるように私の懐にあり、神様が造られたすべての万物が、私たちの美しさと私たちの価値ある愛を褒めたたえるのを見て、感ずるすべての感激にひたり、「お父様、私、訪ねてきました」と言うのです。
そのようにするのと、ただそのまま剛直になり、「あのダンベリー監獄から出てきました」と言いながら涙を流すのとどちらがより必要ですか?
(一九八八・五・一一、清州教会)
自分が「剛直」(超事務的)になったと感じる時に、思い出す御言葉です。
御父様は実際に「訪朝」された時、外的には「涙」も流さず「剛直」でした。
「使命が残っている」という理由だったと思います。
しかし、内的には「心情」があふれていらっしゃったはずです。
「使命が残っている」(忙しい)からこそ、「心情」が必要だと反省します。
家庭聖殿拡大委員会(サンクチュアリ大分教会)から引用して終わります。
まず、伝道は自分がやるのではありません。神様が自分の身体をつかって伝道されますので、その神様と一体とならなければ始まりません。神様の心情とひとつとなるためには真のお父様のみことばを自分の中にしっかりと入れ込み確信をもって、出発することが必要です。
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