もう一度「はげ頭と苺」と最近の御言葉
から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)
私たちに必要でなければ神様は「No」と答えられる
私たちが知らなければならないことは、“神様は私たちを、私たち自身よりもあまりにもよく知っておられる。”ということです。 私たちが10億がほしくても、この職業につきたくても、私たちに必要でなければ神様は「No」と答えられるのです。
「お前はどうやってこの苦難をやりとげようとしているのか?」
お父様も神様が燦爛たる約束、「お前が再臨主の使命を担え」と言われたにもかかわらず、興南監獄に入れられたではないですか。 神様がお父様に苦難を与えたましたがその時、神様はお父様のその姿勢を見たのではないですか。「お前はどうやってこの苦難をやりとげようとしているのか?」 このように見られたじゃないですか。 けれども、お父様は『栄光の恩賜』を神様に捧げられたのではありませんか。 そのようになさいながら、「神様にもっとして差し上げることができないことに申し訳ない心を禁ずることができません。(栄光の恩賜)」こう答えられましたね。
神様との会話なのです。
神様が私をもっと素敵な陶磁器で仕上げてくれるための痛み
並行して勉強している本があります。 「敬虔の時間を過ごせる6つの秘密」(Six Secrets to a Powerful Quiet Time)という本です。 この本でどうすれば敬虔な時間を上手くできるのか、今しています。 その日の気分によって聖書の勉強の中で良かったみ言葉を書いたり、み言葉の映像を見て良かったみ言葉、苦難というのはいつも悪いことだと思うが、いつも日光があれば砂漠になり、いつも波のない海には潮流が生じます。 こんなことも誰かがおっしゃったんですよ。 それで、そのようなみ言葉も再び書き取ってみて、私の人生に苦難があれば、私はこれを神様が私をもっと素敵な陶磁器で仕上げてくれるための痛みなのか、どうすれば神様の方法で私がこれを解釈できるのかなどを話す人がいましたが、そんなことも適用してみたりします。 ところが、これの焦点は常に絶え間なく続けることです。
これは、下記と似ています。
から引用します。(出版・販売に感謝申し上げます。)
解放とは、ハナニム (神様)が私たちに体験させてくださるすべてのもの——それが私自身の判断によれば「善」であれ「悪」であれ——に対し、感謝の姿勢を保ち、他者を全く、また無条件に受け入れることのできる能力のことをいうのだということが次第に分かってきたのです。
すべての 「善」なるものと「悪」なるものが、 究極的には人生をして人生たらしめるものです。 人生を豊かにし、人生たらしめるものは、 感情、思考、情緒、意志、 苦難、浮き沈み、痕跡、試練、努力、経験、悲しみ、幸せ、悲嘆、怒り、満足、意気消沈、同情、赦(ゆる)し、苦しみ、愛、喜び、至福—等々の連なりである、というこ とです。
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ところで、上記の「悪」は、「苦難」に近い意味であり、下記とは違います。
から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)
「悪」は、「善の不在」 (absence of good)です。悪は存在論的に神が創造されたものではありません。善と悪のバランスをとらなければならないというのは間違っています。神の存在の中には悪がないからです。善と悪のバランスというのは、神から離れた時に出てくるものです。神に近づくと、善と悪がありません。神が善であられるからです。
上記の「違い」は、「悪」に関する、王様の認識の発展かも知れません。
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私自身も、最近の王様の御言葉のお陰で、新しい認識がありました。
「はげ頭と苺」から引用します。
自分の命であるその「苺」を、よりによって自分を滅ぼそうとしている、まさにそのものに与えるという心を持つこと、その最悪の敵さえも完全に愛するという心——その前に、私は完全に圧倒され、本当に気を失いました。そして、気がついた時には頭がはげていました。
「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」は、伝道のためである、と教わりました。
「敵を愛する」のは、「苺を与える」こと自体が目的ではなく、伝道(悪人の回心)が目的だと理解します。
「お父さん、牢屋にいた時に、看守たちに何の話をしたんですか?」
「どういう意味かね」
「例えば、拷問される時に、彼らに何かを言いましたか」
「あんたたちも、ハナニムを知らなきゃいけないと言ってやったよ」
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王様と王妃様の、新旧の御言葉のハーモニーで終わります。
「2021聖霊大学春学期 リーダー会議◆ 二代王妃文妍雅様のみ言葉」から
どんなに大きな目標でも一歩ずつ行けば行けるのに、目標があまりにも遠く見えるのでそのまま諦めてしまうんです。
「はげ頭と苺」から
最大のプライオリティーは「人生のすべての瞬間を最大限に生きる」ということでした。