群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)

私ども夫婦は、2015年8月30日に米国サンクチュアリ教会本部で行われた「真の御父様の聖和3周年記念礼拝」(蘇生期・真の基元節)および「真の御父様の権威に戻るための祝福式」に参加し、同日の夜、日本において「真の御父様の権威に戻るための祝福式」を行うための、任命の祝祷を受けました。
2015年12月30日にCyberサンクチュアリ人協会の会長を辞め、文鮮明真の御父母様・文亨進二代王様・文國進監察総監様の側近である江利川総会長の下で働くため、日本サンクチュアリ協会に移籍しました。

「自分を押し出さねばならないのです。」


自分の責任を掛けてしなければいけない

何故!?我々は中央政府を中心にしないから。我々には神学的な目的があるから。神様を愛し隣人を保護する目的があるから。そして皆が怒鳴って従わせるのではなく、皆が良心に掛けて良心から“ああ、私が頑張らねば。皆が頑張っているのだから私も頑張らねば”と良心に掛けてするので、この者たちも自分を刺激的に、自分の責任を掛けてしなければいけないから。


5%の責任分担がありますね、そうですね?  ですから自分を押し出さねばならないのです。

水曜礼拝に来てこの者たちが二代王様のみ言葉を聞いて刺激を受けるが、結局火曜日になって。自分が行きたくなくても自分自身を叩いて「ほら起きろ、行こう行こう」と刺激を与えて自分に勝たねばならないですね。いくら水曜礼拝を受けたとしても、そうか、そうでないか?  自分の5%の責任分担だから。


江利川会長のリマを引用します。

天基15年天暦2月4日

2024年3月13日

今朝のリマです。


「自分を主として、自分が動機となるときには、五パーセントの責任が必要であり、神様を主として動機となるときには、五パーセントの責任は必要ない

(み旨の道 信仰生活より)

今まで記憶にありませんでしたが、理解が難しい御言葉です。
昨日の記事のように、「神様と完全に一つになる」ことは、あまり想定できません。

から引用します。

「み旨」が無ければ、自分は「怠け者」です。

怠ける自由がある時は責任が有り、強制される時は責任が無い、とも言えます。
神様は強制しないので、常に責任がある、と考えられます。


「神はゴリアテよりもはるかに大きいのです。」 

「神が道徳的に決めることと、私たちが道徳的に決めることに、目に見える違いがほとんどなくなるまで、私たちはどんどんどんどん近づいていく。」

昨日の記事と関連性(キリストと他の人間との対比)があります。


宗教を超えた関係(3)〔2023年11月26日 英語礼拝〕 | kijoksoriのブログ

から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)


神が道徳的に決めることと、私たちが道徳的に決めることに、目に見える違いがほとんどなくなるまで、私たちはどんどんどんどん近づいていく。

先日、国進兄さんが統計学と高度な数学、そして、1/xの運動について話していました。xの値が大きくなるにつれて、分数1/xの値は小さくなっていく。だんだんと、そして無限にゼロに近づいていくが、決してゼロにはならない。

このように、私たちは訓練を積むにつれて神に近づいていくが、決して神にはなれない。

それにもかかわらず、神が道徳的に決めることと、私たちが道徳的に決めることに、目に見える違いがほとんどなくなるまで、私たちはどんどんどんどん近づいていく。


御言葉の趣旨から外れますが、「アキレスと亀」を思い出しました。
「アキレスと亀」を検索した結果、次を読みました。

0~1で構成された数直線に向かってダーツを投げるとする。このとき、中間地点である0.5という点にダーツが刺さる可能性はいくらか?

このとき、数学的に0~1の間に点は無数にあるので、


求めたい場合の数÷起こりうる場合の数    =    1÷∞    =    0


となります。つまり確率は0。

0.5には絶対に刺さらないという結果になります。

しかし、それはおかしい。なぜなら実際0.5に刺さることもあるからです。

ということは数学的には0と答えがでたことが現実では起こる。

確率論でこのような問題は、区間で考えます。点ではなく、そこにわずかでも幅があれば、そこに刺さる確率を計算することができるからです。

2つの赤字は、食い違っています。
食い違いが起きる理由について、参考は次です。

9.9999999…は9がいくつ続こうと、やっぱり10ではない気がしてならないのです。小数点以下の9が無限個あるとしても、やはり10ではない。実はこの話は、数学者たちを悩ませてきた、無限小や無限大の問題に関わってきています。


2つの赤字は、次の象徴だと思います。

人間の罪は0にはならない

人間の道徳と神の道徳が一致する確率は0

青字は、両方に対する(数学的な)希望です。



「神はゴリアテよりもはるかに大きいのです。」

「彼(キリスト)は地球上における私(神)なんだ。」

神学、文化、憲法(2)〔2024年2月4日 英語礼拝〕 | kijoksoriのブログ

から引用させて(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)


彼(キリスト)は地球上における私(神)なんだ。

私の息子が来るからだ。彼は私の生きた神殿を持っている。彼は生きている。彼はデジタル世界の地球で、ビデオゲームに登場する私の生きたキャラクターなのだ。そう、比喩的に言えば、彼(キリスト)は地球上における私(神)なんだ。だから、彼を愛さなければならない。彼と関係を持たなければならない。


神様の理想家庭と平和理想世界王国(2)(3) : 文鮮明先生말씀選集

から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)


人類は日常生活の中で神様の実体を認知して生きるようになったでしよう。

 このように神様の実体対象として創造した一番目の男性格がアダムであり、女性格の代表がエバです。ところで神様がこのように人間を1男1女に分立して創造された所は目的があります。


 第1に、二性性相の中和的主体として自存されながらも無形でおられる神様は実体世界を相対とするところ必要な体を着るためでした。男性の体だけでもなく、アダムとエバ二人の体を着て実体世界と自由自在に交通し作用するためだったのです。体を着ない無形の神様としてだけは有形実体世界を相対とするのに限界があるためです。』これが重要な問題です。


 『したがってアダムとエバが心の中に神様に侍って一体になって完成した基盤の上に結婚をし子女を産んで家庭をなしたとすれば、アダムとエバは外的であり横的な実体の真の父母になって、神様は内的であり縦的な実体の真の父母になったでしよう。このようにだけなったとすればアダムとエバは内外両面から100%神様を立体的に似た立場に立つようになったでしよう。このように神様に完全に似たアダムとエバが人類の真の父母になったとすれば彼らの姿を通して人類は日常生活の中で神様の実体を認知して生きるようになったでしよう。


 第2には、愛の完成のためです。アダムとエバが完成して完全一体をなした愛の実体になればその上に神様が臨在し人類の真の愛の父母になろうとすることにあったのです。神様の形状的な実体父母の立場に立つようになるアダムとエバが実体の子女を繁殖することによって理想家庭、理想世界をなすことができたでしよう。そのようになれば人間を通して霊界と地上界を連結する目的を置いて人間を創造されたという結論を下すことができます。』一度考えてみなさい。



「神はゴリアテよりもはるかに大きいのです。」