群馬県高崎市白岩町サンクチュアリ教会(元・埼玉サンクチュアリ教会)

私ども夫婦は、2015年8月30日に米国サンクチュアリ教会本部で行われた「真の御父様の聖和3周年記念礼拝」(蘇生期・真の基元節)および「真の御父様の権威に戻るための祝福式」に参加し、同日の夜、日本において「真の御父様の権威に戻るための祝福式」を行うための、任命の祝祷を受けました。
2015年12月30日にCyberサンクチュアリ人協会の会長を辞め、文鮮明真の御父母様・文亨進二代王様・文國進監察総監様の側近である江利川総会長の下で働くため、日本サンクチュアリ協会に移籍しました。

「不平を言うようになればその場がなくなり始める。」

昨日の記事に関連しています。


第47回真の父母の日(6) : 文鮮明先生말씀選集

から引用します。(翻訳・掲載に感謝申し上げます。)


不平を言うようになればその場がなくなり始める。

 本当に!不平が盗人と言う言葉は何か?不平を言うようになればその場がなくなり始める。なくなるのだ。だから不平を一言言ったが、私が何の争いもしなかったが近い人が落ちて出ていく。そう、近い人を逃げることができるように、怨讐をつくることができるようにする言葉が不平を言う言葉だ。


順応できるチャンピオンになればなるほど横にいる人、周辺にいる人、好むことができる人が多くなる

 不平を言う人はこのような公席に多く参席すれば10であれば10回よくなりえない結果になるので、今後不平を言えるチャンピオンにならず順応できるチャンピオンになればなるほど横にいる人、周辺にいる人、好むことができる人が多くなるというのは常識的な批判であり、儀礼的な一つの礼法だというのだ。そのようなことを考える時、不平を言いたくても耐える人は逃げる盗人も私の側につくることができる道が生じるのだ!逃げようとしてもくっつく。耐えてくっついておけば二人が分かれていくが一人も失うことがありえないのでそれ以上商売の中の商売がないという考えをしてもあまり失礼ではないのだ!それがそうだとすれば拍手をしてみなさい。(拍手)


しかし、私のレベルは、むしろ下記です。
(最近、ある「敵」に気を取られていたら、他にも「敵」が現れて、気が紛れたことに感謝します。)



Bob Dylan - Positively 4th Street | 寂しき4番街 (日本語字幕ver)


たった一度だけ、あなたが私の靴の中に立ってくれたらいいのに
I wish that for just one time you could stand inside my shoes
そしてその一瞬だけ、私はあなたになれる 
And just for that one moment I could be you
そう、一度だけでいいから私の靴の中に立ってくれたらいいのに
Yes, I wish that for just one time you could stand inside my shoes
あなたに会うのがどんなに辛いか分かるでしょう 
You'd know what a drag it is to see you



「呼び求める者は誰でも救われる」

「無理やりに皆さんは嫌いな人と一緒に、常に仕事をして、そのようにする必要はありません。」


しかし、お互いに尊敬してお互いに愛して、お互いに応援して、お互いに夫婦の回復と家庭の回復と、そのような部分が勝利的にできるように祈祷して

民兵隊はお互いに応援しなければなりません。なぜなら、私たちは皆同じチームです。あんなこんなグループ、あんなこんなグループではありません。お父様の権威圏にいる人々は、皆三代王権に侍ってお父様をメシアだと信じて。


その意味は無理やりに皆さんは嫌いな人と一緒に、常に仕事をして、そのようにする必要はありません。しかし、お互いに尊敬してお互いに愛して、お互いに応援して、お互いに夫婦の回復と家庭の回復と、そのような部分が勝利的にできるように祈祷して、皆さんは他のお父様の権威圏にいる人を憎んだら、その人の家庭のためにもっと祈祷しなければなりません。


その人の夫婦が勝利することができるように。子供たちも回復することができるように。このようなことをしなければなりません。なぜなら私たちは皆同じチームです。(拍手)


皆さんは死ぬ前に、10年があるではないですか。
霊界に行く前に。60歳70歳の勧士ニムがたくさんいますね。皆さんは死ぬ前に、10年があるではないですか。10年あればその10年は訓練しなければなりません。10年の訓練。感謝の訓練。許しの訓練。わかりますか?

今日も新しい出発として

天のお父様、今日も新しい出発として、全ての父母たちも、父母訓練、桜の花が咲くことができる10年の訓練を始めることができるように伝道夫婦デート訓練を始めることができるように、お父様、共にしてくださり、夫婦回復家庭回復の内容を、お父様が、感謝と喜びをお返しすることができる、そのような内容になるように許諾してください。


次の過去記事があります。

「呼び求める者は誰でも救われる」

⑦証の原稿「『家族を犠牲にする』ことを正当化する傾向が生まれたと思います。」


過ぎてみれば愛であった


(二日修)
その後、ビデオセンターで、原理講義の受講を終えました。
それから二日修に誘われました。
しかし、同じ中身の繰り返しだと聞いて、私は断ろうとしていました。
その頃、会社の同僚との食事中、その話題になりました。
その時、水のコップが倒れました。
少し触ったかも知れませんが、倒れるほどではなかったと思って、不思議に感じました。
さらに、それ以降、しばらくの間、食べ物ののど通りが悪くなりました。
私は、二日修を断ろうとしているのが良くないのかも知れない、と考えさせられました。
そして、二日修に参加することになりました。


(イサク献祭)
二日修では、イサク献祭のところで、私に聖書拝読が回ってきました。
既に子供がいた私は、子供を殺そうとするアブラハムと、それを命じる神様の辛さを、良く理解することができました。
それまで原理講義を知的にだけ受け止めていましたが、初めて聖霊の感動が来ました。
それによって、私は決定的に伝道されたと言えます。


(家族の犠牲)
先ほど、私のネーミングのエピソードが、恐怖心を打ち消すことが、失敗の原因になることもある、という話をしました。
イサク献祭に感動して、伝道されたことにも、同じ面があります。
それ以降、私自身は信仰が揺らいだことがありません。
しかし、「家族を犠牲にする」ことを正当化する傾向が生まれたと思います。
私の霊の親は、その後、離れたために、霊のおじいちゃんのお世話になりました。
その人は、「あまり無理をしないように」というアドバイスを下さいました。
それが「イサクを殺してはいけない」という神様の代弁だったかも知れません。
しかしもう一つ、「教会の指導に従うように」というアドバイスも下さいました。
結果として、「家族を犠牲にする」傾向は弱まることがありませんでした。
家族を伝道できず、反対されるようになりました。
蕩減時代の悲劇だったかも知れませんし、私の失敗だったかも知れません。



「呼び求める者は誰でも救われる」