「聖霊」に関する聖句
原理講論170~171頁から引用します。
イエスは「わたしはこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう」(ヨハネ一六・25)と言われることによって、終末に至れば再び新しい真理のみ言を下さることを約束されたのである。
(中略)
そればかりでなく、イエスは弟子たちにまでも、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」(ヨハネ一六・12)と、心の中にあるみ言を、みな話すことのできない悲しい心情を表明されたのである。
しかしイエスが語り得ず、心の中に抱いたまま亡くなられたそのみ言は、永遠に秘密として残されるのではなく、「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネ一六・13)と続いて言われたように、そのみ言は必ず聖霊により、新しい真理として教えてくださるようになっているのである。
「中略」より前の部分は、「終末」について書かれています。
しかし、「中略」より後の部分は、「真理の御霊が来る時」について書かれています。
従来、これを読んだ私は、「真理の御霊」とは「再臨主」のことだという、漠然としたイメージを持っていました。
しかし、最近になってやっと、「真理の御霊」とは「聖霊」のことだということを、明確に理解しました。
ヨハネによる福音書/ 14章 16~17節
わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。
それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。
ヨハネによる福音書/ 14章 18~19節
わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。
もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。
連続する「節」ですが、区切りました。
これも紛らわしいものです。
前半は「聖霊」に関する聖句です。
後半は「再臨」に関する聖句です。
「聖霊」が話題となり、「クリスチャン伝道」を考えた時に、「知的」には、やや「神経質」になります。
しかし、もっと「大胆」に、「聖霊」に委ねるべきかも知れません。
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