「功労」とは何か? 10月31日の質疑応答から
最初に、史吉子氏の書籍「原理に関するみ言の証」221頁から222頁にかけて引用します。
神様が認める功労者は忠臣だそうです。忠臣に敵う先祖はいないのです。
その次が孝子・孝女、列男・列女であり、宗教を信じる人はその次だそうです。
なぜそうなのか。たとえ神様が願われる国ではなかったとしても、その国の忠臣になった人は国のために個人と家庭を犠牲にするではありませんか。このような理由で神様が認める功労者が忠臣です。
(中略)
その次には、神様も家庭を持つことを望まれるそうです。
地上には神様の家庭がありません。しかし、地上で父母のためにあらゆる困難を克服して親孝行した子供を見ると、神様も感動されるそうです。
そして、たとえ神様を中心としなかったとしても、厳しい困難に耐えた列男・列女たち、夫婦間の貞節を徹底的に守った彼らを神様が認めてくださるのです。
36家庭の先祖の中には、このように特出した先祖が間違いなくいるそうです。
これは、御父様と統一教会が現れる前の「功労」です。
御父様と共に、「神様が願われる国」「神様の家庭」のために歩むことは、それ以上の「功労」のはずです。
その際の注意点を、國進様は次のように語っていらっしゃいます。
宗教的な組織で実力主義的な目標を追及するなら、実際は、神様を愛する神様との関係を追及していないことになります。
それは階級組織の愛の関係を追及していることになるのです。
これは、動機の問題だと思います。
分かりやすい表現は、日本サンクチュアリ協会大分教会のブログ記事のタイトルになっています。
「アベル信仰、人間信仰、組織信仰は原理違反です」
亨進様は、次のように語っていらっしゃいます。
神様の完全性に照らすと私達の価値が神様のところに連れて行くことはありません。
私たちを神様のところに連れて行くのは神様と神様の息子の価値なのです。
それは神様の愛であり、イエス・キリストの犠牲であり、真のお父様が再臨主として払わなければならなかった犠牲なのです。
それによって私たちは彼の肉体をまとい、彼をまとい、神様の前に行くと、神様は私たちの罪を見ずに真のお父様の勝利を見られるのです。それはまったく違うのです。
ですから恩寵を理解するというのが重要です。
私たちが救いと神様との関係という観点で話すとき、それは実力主義ではありません。
それは、メシアを通して表れた神様の愛であり、私たちはその愛をまとうのです。
私たちが悔い改め、真のお父様に屈服し、三日行事でお父様を身にまとうのです。
「私達の価値」や「実力」が問題ではありません。
「悔い改め、真のお父様に屈服し」、メシヤによる祝福の「恩寵を理解するというのが重要です」。
「高額献金」と「独生女による祝福」が、「神様のところに連れて行くことはありません」。
(お問い合わせ先:メール sanctuary.saitama@gmail.com
電話番号 堀勇一070-6670-5334 堀久子070-6637-7424 )
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