「隣人の生命を守る」 イエス様の例 「霊的生命」 7月10日の亨進様説教
7月10日の亨進様説教から引用します。
たとえ隣人が「変わった人」「自分と意見が異なる人」であったとしても関係ないのです。隣人の生命を守る保護者、警官だというのです。たとえ隣人がイスラムであれレズビアンであれ、その生命を守る者にならなければなりません。たとえ隣人の考えが自分と全く違ってもその権利のために立ち上がらなければなりません。それが「真の神の人」と「リベラル」、共産主義者」との違いです。大きな違いです。
たとえ愚かな考えを持った隣人であったとしてもその生命を命懸けで守ること以上に「隣人を愛する」素晴らしい方法があるかというのです。それが自分を迫害し憎む者のために命を捧げられたイエス様が身をもって私たちに教えて下さったことではないですか。それゆえに神様を愛し、イエス様を愛し、そのような信じられない人間になろうと努力しているのではないですか。
「思想」よりも「生命」の方が、大切だということです。
「生命」が残っていれば、「思想」は直すこともできるからだと思います。
「隣人」の生命を守るために、「自分」の生命を捨てることは許されます。
それは「愛」が「生命」よりも大切だからだと思います。
ですから、隣人が家族を強姦しようとしたら、「射殺」することもあると思います。
それは「強姦」が「愛」を破壊する犯罪だからです。
それゆえに、事前に被害者が自分の「生命」を絶つことも許されているのだと思います。
ところで、イエス様の弟子達は、「イエス様」の生命を守ることに失敗しました。
その一つのエピソードは、5月19日の当ブログ「自爆テロ 劉会長の使命?」に書きました。
別のエピソードについて、原理本体論674頁から引用します。
イエス様が、イスカリオテのユダが裏切るだろうと言われたので、彼を連れていって悔い改めさせるとか、でなければ、イエス様を裏切らないように彼を閉じ込めるとかしなければならなかったのです。
しかし、彼らは自分のことだけ考えて、イエス様を裏切る道を防ごうとはしなかったのです。
これに関連して、3つのポイントを指摘したいと思います。
1.「思想」は、結果的に、「生命」に影響します。
イエス様に対するユダの反感は、イエス様を殺す道を開きました。
「イスラム」はテロを起こすかも知れません。
「レズビアン」のような「フリーセックス」「フェミニズム」は、妊娠すれば胎児を殺すかも知れません。
幼児性愛者になって、子供を殺すかも知れません。
2.「思想」は、それ自体、「霊的生命」に影響します。
7月10日の亨進様説教から引用します。
事実が重要です。人が何と言おうとかまいません。本当のことを話すだけです。それによって誰かの生命が助かるならそうすべきでしょう。お父様から離れ去って地獄に行くしかない霊的生命がお父様に戻るとき、考え方においてもこの世のマスコミや一般社会のいうことを鵜呑みにしなくなるでしょう。たった一人でも真実を知るならその人を通して先では多くの人が知るようになるのです。それが真実の美しさであり自由と責任の力だというのです。神様からの賜物の価値と善の上に立っているので最後には必ず勝利するのです。
「肉的生命」が残っている間に、「思想」が変わらなければ、結局「霊的生命」が失われます。
3.「自分のことだけ考えて」いると、「隣人の生命を守る」ことはできません。
同じ説教から引用します。
世間は事実に関心がないのです。しかし事実はひとの命を救います。事実に則(のっと)って話すとき人の命を救うことがあるのです。政治的配慮や感情にまかせて話をするとき、人の命を救うことができないのです。
「シングルマザーの家庭こそ子供の成長にとって最も危険な環境である」と私が言うとき女性は不愉快に思います。それがどうしたというのです。私は少しも気にしません。あなたが不愉快に思おうとどうしようと事実は事実です。
「シングルマザー」は一つの例です。
あらゆることについて、「事実」を話すことが大切です。
「事実」であれば、言いにくいことでも、言わなければなりません。
当ブログの方針でもあります。
しかし、まだ遠慮しています。
それはそれで、「遠慮」が必要な場合もあると思います。
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