(続)「怨讐を愛する」ための考え方
6月19日の当ブログの続編です。
「人生をバラ色にする」ために、大切なテーマなので、念を押したいと思います。
マタイによる福音書7章9節と10節です。
あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。
魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。
このように、あなたがたは悪いものであっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。
サタンは、「石」や「へび」や「十字架」を与えます。
メシヤであるイエス様や、ヨブのような義人も、それを受けます。
しかし、最終的に、神様は、それ以上の「良いもの」を下さいます。
その究極が、「完全な者」「天の父に似た者」としての「栄光」です。
私達が「義人」でなければ、「怨讐」が与えられるのは当然です。
それでも神様は、同じく「良いもの」を下さいます。
そう考えれば、「怨讐」は恐ろしくありません。
「愛の減少感」もありません。
2月19日の当ブログ「冬の愛 はげ頭と苺 天一国国歌」から引用します。
2月14日午後、亨進様のみ言葉では、神様の「冬の愛」についても語られました。
次のような趣旨です。
神様の愛は、冷たい時もあり、答えて下さらない時もある。
そのような「冬」を愛せなければ、御父様を愛せない。
御父様の愛は永遠不変であり、春夏秋冬がある。
自分の願いを中心にするのではなく、御父様に合わせなければならない。
最も厳しい時に、もっと深く入ることによって、美を見い出せる。
誰も見ることができない、冬の夜空の星を見るし、火のぬくもりが天国になる。
マタイによる福音書10章38節と39節を引用します。
また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。
自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。
「十字架」「怨讐」と共に、「バラ色の人生」があると信じます。
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2012年に出版された亨進様説教集の第5巻160頁から引用します。
子供たちが大声をあげて泣いても、「かまわない。かまわない。これが真の修行だ」と思って、子供たちが甘えるのを受けてあげます。
精神状態によっては、わが子も、あるいは、わが妻も、「怨讐」になります。
しかし、逆に、「怨讐」を「わが子」と思える「父母の心情」もあります。
しかし、神様も「愛の怨讐」「姦夫」は許せない、愛を破壊することは許してはいけない、という御父様のみ言葉がありました。
しかし、愛の怨讐のために、祝福を祈らなければならない、というみ言葉もありました。
しかし、亨進様は、愛する家族を強姦しようとする者は射殺しなければならない、と語られています。
「怨讐を愛する」ことは複雑です。
6月15日の亨進様説教から引用します。
私たちはオモニを愛するから!どうかこの道を行かないように!言ったのです。
原理本体論90頁から引用します。
正しいものは正しいと言い、正しくないものは正しくないと言ってこそ、正しい兄弟として同じ道を行くことができるのです。
それは父母に侍る子どもとして果たすべき道理です。
「愛する」ことは「悪を放置する」ことではありません。
「怨讐」が「人」でなく、「物事」の場合も同じです。
「人事を尽くして、天命を待つ」です。
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