改めて「自由と責任」について 江利川総会長の言葉を基に
尊敬するブログ「原理講論を読む」の4月21日の記事から引用させて頂きます。
江利川会長は「自由だったらわたしはやらなかった。責任だったのでわたしはやったのです。」と言われました。
この言葉は、私も聞いたことがあり、印象に残っていました。
ちなみに、「原理講論を読む」の深い思索に、私は比肩することができません。
これは、もっと浅い次元の論評です。
亨進様説教集第3巻「悔い改めと精誠」97頁と98頁から引用します。
主に侍っているので、主の恩寵を受けられる、恵まれた立場に立っているのです。
祝福家庭として、私たちはそのような恩寵を受けました。
今はそのような恩恵と真の愛を、世の中の人々に分けてあげなければなりません。
国家的メシヤとして、氏族的メシヤとして祝福してくださいました。
私たちは父母の心情を相続し、死んでも死んでも、生命を救援できる勇士と英雄にならなければなりません。
私達は既に「主の恩寵を受けられる」自由を得ました。
しかし同時に「そのような恩恵と真の愛を、世の中の人々に分けてあげる」責任を持たされました。
私達は皆、「氏族的メシヤ」としての責任を持たされました。
江利川総会長は、国家レベルですから、言わば(正式な任命名称ではありませんが)「国家的メシヤ」の責任を持たされました。
私も、埼玉県レベルの責任を持たされました。
自由であれば、私も「氏族的メシヤ」の責任に戻りたいと思います。
責任はできれば小さいほど良いと思います。
責任は「勝利」しなければならないからです。
大きな責任は、やむを得ず引き受けるものです。
しかし、やむを得ない場合には、逃げることができません。
それが「勇士」になる条件です。
それが「勇士」の選ぶ「自由」だと言えば、「自由」でもあります。
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「勝利」するために、自分への戒めを振り返ります。
4月19日の当ブログ「『自己崇拝』『フェミニズム』『イスラム教』『愚者』」から引用します。
私は、江利川総会長の指導を受ける、自分の選択を信じています。
私は、自己崇拝をしません。
私は、最善の指導者を選びます。
2月21日の当ブログ「悪と戦う自由」から引用します。
嫌なことですが、私は「批判」を受け止めます。
それが正しいものであれば、自分の中のサタン(堕落性)を気づかせてくれるからです。
6月1日の当ブログ「『一つになろう』と言わない亨進様」で引用した、2016年5月22日の亨進様説教から引用して終わります。
現実を直視するとき目が覚めます。そうしてそこから段階を踏んで向上していく過程が始まるのです。このように現実に向き合うこと、現実を直視することこそ、知的な分野でも他の様々な分野でも重要だというのです。
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