「悪」のある地上天国 原理講論との整合性
2016年3月9日の亨進様説教から引用します。
自由と理想世界、自由と責任とはどういうことですか?
皆さん、神様は私たちに自由と責任をくださったので、自由選択をしたので、理想世界でも地上天国でも悪を完全に無くすことはできません。何故?選択を無くしたら悪を無くすことはできますが、そうしたら人も無くさないといけません。
何故ならば、人は自由選択で選択しなければなりません。
私は神様を愛すると選択しなければなりません。自由に。
そうしてこそ授受作用ができるのです。ロボットになるのではなく。
ですから自由選択がある限り、悪を完全に無くすことはできません。
もし人々が天国を考えて、地上天国を考える時に悪の無い世界、罪の無い世界だと考えるならば、それは間違いです。間違いです。
聖書で、イエス様が千年王国を建てるときに恐ろしい鉄の棒を介して国を保護されます。
地上天国にも悪もあるでしょう。皆さん。
当然、これは原理講論の総序34頁を思い出させます。
したがって、この新しい真理が、人類の罪悪史を清算した新しい時代において建設するはずの新世界は、罪を犯そうとしても犯すことのできない世界となるのである。
今まで神を信ずる信徒たちが罪を犯すことがあったのは、実は、神に対する彼らの信仰が極めて観念的であり、実感を伴うものではなかったからである。
神が存在するということを実感でとらえ、罪を犯せば人間は否応なしに地獄に引かれていかなければならないという天法を十分に知るなら、そういうところで、だれがあえて罪を犯すことができようか。
罪のない世界がすなわち天国であるというならば、堕落した人間が長い歴史の期間をかけて探し求めてきたそのような世界こそ、この天国でなければならないのである。
そうして、この天国は、地上に現実世界として建設されるので、地上天国と呼ばれるのである。
この違いを、どのように理解すべきでしょうか?
亨進様がおっしゃっているのは、可能性としての「悪」だと思います。
言わば「善悪を知る木」の「悪」です。
あるいは「一時的」な悪、「過渡的」な悪です。
亨進様のみ言葉をもって、「自分は悪でかまわない」と開き直ったり、「被害者はかわいそうだが仕方がない」と泣き寝入りしたり、すべきではありません。
私は、ある人の発言を思い出しています。
皆さんが責めている私の思想がかわることもありません。
私は、その思想と戦ったことがあります。
「ローダスさん」の事務的問題よりも、もっと根本的問題です。
正しいかどうか以前に、その思想は隠されていました。
今、その思想が変わっているかどうか分かりません。
「裏表をなくそう」というのが、最近の亨進様のメッセージです。
上記の同じ説教から引用して、終わります。
隠し事があると影ができ影の中にサタンがいます。
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